新しい年を迎えたが、素直に「おめでとうございます」と挨拶(あいさつ)をするのもはばかられるような雰囲気だ。もちろん東日本大震災のせいである。
日本が千年に一度といわれる大地震や大津波に襲われ、死者・行方不明者は2万人に迫り、30万人を超える人が新年を避難先や仮設住宅などで迎えることになろうとは、昨年の正月に誰が予想できただろうか。
こんな壮絶な現実を経験してしまうと、もはや今年がどんな年になるかを予想することすらむなしく感じてしまう。
こうした気分になってしまうのは、震災のせいだけではない。政治や経済問題など、国を覆う閉塞(へいそく)感がいつになれば払拭されるのか、全く見当がつかないからでもある。
昨年暮れ、この閉塞感を打ち破りたいと考える2人の対談を、そばで聞くことができた。年末特別企画として紙面に掲載した石原慎太郎東京都知事と橋下徹大阪市長の対談である。
橋下市長の石原知事への就任挨拶に合わせて依頼した。ともに強烈な個性の持ち主で、歯に衣(きぬ)着せぬ発言で知られるだけに、どんな対談になるのかワクワクしながら臨んだ。
実は、この対談では、司会進行役を務めることになっていた。ところが、2人の対談は冒頭から盛り上がり、口を挟む必要が全くなかった。というよりは、2人の熱いやり取りに、最後まで口を挟めなかったというのが実情だ。
橋下市長が「物事を決められない今の日本の仕組みを変えなければいけない。民主主義は否定しないが、決められない民主主義、責任を取らない民主主義は変えなければ」とまくし立てれば、石原知事は「全くそのとおりだ」と応じる。
逆に、石原知事が「国の役人に『お前らダメだ』と言ったら、『とりえがございます。コンティニュイティ(継続性)とコンシステンシー(一貫性)です』という。この変化の時代に継続性と一貫性では何も新しいことはできない。結局、日本をダメにした」と官僚制度をバッサリ切り捨てれば、橋下市長も「『連続性』に代えて、『不連続性』に挑戦するのが政治。日本全体で連続性を絶たないと沈没すると思っている」と応えるなど息はピッタリ。
「昔だったら殺されている役人もいる」といった少々乱暴な言葉も飛び出したりしたが、2人の対談は予定時間をオーバー。日本の現状を憂う危機感がひしひしと伝わってきた。
2人は、人に嫌われることを恐れず、自分の考えを自分の言葉ではっきりと話す。メディアでの強気な発言や保守的思想、さらには頭の固い役人に対する高圧的な言動など共通点は多い。だから敵も多い。
かつて、橋下市長は、自らの著書の中で、「ドラえもん」のスネ夫のような処世術を肯定し、「ジャイアンのような強い人、強い存在とうまくつきあって生きていくことは、悪いことでもずるいことでもありません」と述べていた。石原知事を立てる橋下市長の姿をそばで見ながら、その言葉を思い浮かべてしまったのは、少々失礼だったかもしれない。
この2人は昨年の選挙で圧勝した。それは、東京五輪誘致とか大阪都構想とは別次元の有権者の期待だろう。なによりも、何かやってくれそうな突破力のあるリーダーを有権者が求めたからにほかならない。
翻って、いまの中央政界はどうだろう。内向きで党内融和を最優先し、珍しく気迫を見せた消費税増税案も、意味もなく時期を半年遅らせてしまった野田佳彦首相。なんとしても政権を奪還し、何かをしたいという意欲が感じられない自民党の谷垣禎一総裁。誰かに遠慮しているのか、それとも選挙で大敗するのが怖いのか、石原知事や橋下市長のように「嫌われてもいいからオレはやる」という強い意思が感じられるリーダーが見当たらない。
おりしも、今年は、昨年暮れの北朝鮮に続いて、世界の主要国でリーダーが一斉に入れ替わる年。産経新聞では、紙上でリーダー論を展開する。国のリーダーから、小さな組織のリーダーまで、リーダーはどうあるべきか。どのように育つのか。本当に必要なのか。さまざまな角度から切り込み、真のリーダー像を見つけたい。もちろん、石原知事や橋下市長も取り上げる予定だ。
(東京編集局長 飯塚浩彦)