竹崎季長、幕府に提訴。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】1275年5月23日






蒙古撃退の論功行賞求める


 建治(けんじ)元(1275)年5月23日夜のことである。肥後国(熊本県)御家人、竹崎季長(すえなが)は深い悩みを抱えて同国二宮の甲佐(こうさ)神社に参詣していた。

 「先の蒙古との合戦から、はや半年。一番駆けを果たしたにもかかわらず、功績が鎌倉幕府に認められないのはなぜなのか…」

 先の合戦とは、蒙古軍を迎え撃った「文永の役」(1274年10月)である。29歳だった季長は姉婿らと出陣し、わずか5騎ながら勲功第一とされる一番駆けを果たした。奮戦の模様は、のちに彼が作らせ甲佐神社に奉納した『蒙古襲来絵詞(えことば)』(宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)蔵)に描かれた通りである。

 季長が命がけで戦ったのには理由がある。父の所領をめぐる争いに敗れ、「無足(むそく)(領地を持たない)の身」に転落していた。彼は合戦で手柄を立て、新たな領地を獲得するしかない苦境に追い込まれていたのである。

必死の祈りが通じたかのように、祭神の甲左大明神は社殿東側に植えられた桜の枝に姿を現した。季長は「東」に意味を感じて鎌倉への提訴を決意したと、『絵詞』は記している。

 6月3日に故郷を出発した季長は8月中旬、鎌倉に着いた。コネをたどって10月3日、恩賞担当の御恩(ごおん)奉行・安達泰盛に面会することができた。そして必死の訴えは幕府を動かした。11月1日、季長は肥後国海東郷(かいどうごう)(宇城(うき)市)の地頭に任命され、名馬一頭を拝領する名誉も得たのである。

 季長は再度の蒙古襲来(弘安の役、1281年)にも参戦した。この戦いでは、蒙古の軍船に乗り移って敵を討ち取る手柄も立てている。

 御家人・竹崎季長の名は『絵詞』によって後世に伝えられることとなった。季長のような武士たちの命を惜しまぬ奮闘こそが、大国・元の魔手から日本を守ったのである。


                                     (渡部裕明)