【消えた偉人・物語】橋本左内
「吾れ先輩に於ひては藤田東湖に服し、同僚に於ひては橋本左内を推す。二子の才学器識、豈(あ)に吾輩の企及する所ならんや」
これは西郷隆盛の言葉である。橋本左内(1834~59年)は、越前国(福井県)に生まれ、緒方洪庵の適塾で学んだ後、越前藩主の松平春嶽(慶永)に登用された。藩政改革を進める一方、一橋慶喜の将軍擁立運動を展開したことを理由に、井伊直弼による「安政の大獄」で刑死。26歳であった。「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時勢に御座候」。西郷は大久保利通らへの手紙で左内の死をこう悼んだ。
国定修身教科書では、左内と西郷との出会いの場面が描かれている。西郷を訪ねてきた「二十歳餘りの、色の白い、女のやうな」左内を西郷は見くびり、丁寧な対応をしなかった。しかし、左内はそれを気に掛けることなく、国事についての自分の意見を堂々と述べる。その見事さに西郷は「國のためを思ふ眞心のあふれてゐるのにすっかり感心」するとともに、自らの非礼を反省し、翌日、左内を訪ねて詫(わ)びたという話である。「景岳(左内)は一世の偉人なり、我が無礼、ほとんど同志の士を失わんとせり」
西郷はこの時の心境をこう表現した。左内には、15歳の時に書いた『啓発録(けいはつろく)』という文章がある。この内容は(1)稚心(ちしん)を去る(子供っぽい甘えや怠惰な心を捨て去る)(2)気を振るう(勇気や気概を奮い起こす)(3)志を立てる(自分の進む道を自分で定め、一度決めたら決して迷わない)(4)学に努める(先人の立派な行いに倣って、学問や修養に励む)(5)交友を択(えら)ぶ(本当に有益な友をえらんで交際を深める)-と集約できる。
いずれ世界には、イギリスかロシアを盟主とする国際的な同盟関係ができる。そのために、日本がいかなる国家戦略を立てるか。左内の思想は、自らの生きざまと向き合う明確な意志と志の延長線上に像を結んだ。
左内の濃密な生涯は、人間にとっての価値が、生きながらえた歳月の長短ではなく、結局は何を為し得たかに集約されることを教えてくれる。左内は、26年の生涯を余すことなく生き切ったのである。
(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)