平壌運転ですな。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ご隠居さん様のブログ・こりあうぉっちんぐ より。





ソウル独立門の由来に現地若者「日本からだ!」

→正解は中国


草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員奮励努力セヨ。 








 井沢元彦氏は1954年、名古屋生まれ。週刊ポストに連載中の『逆説の日本史』はシリーズ累計440万部を突破した。10月より小学館のウェブマガジン『BOOK PEOPLE』にて『逆説の世界史』も連載中の井沢氏が、朝鮮半島の過去現在未来を、東アジア流転の歴史から読み解いている。



                   * * *


 朝鮮半島の国家は歴史的に「つらい」国であった。日本のように海に囲まれておらず、中国と陸続きであるから、何かと中国が戦争を仕掛けて来る。七世紀高句麗や百済は唐に抵抗したが、新羅の金春秋(武烈王)は結局唐の臣下(新羅国王)となってライバルを滅し半島を統一する道を選んだ。これ以後、半島の国家は新羅であれ高麗であれ朝鮮であれ、すべて「国王」すなわち中国皇帝の臣下であった。それが歴史上のまぎれもない事実だ。


 だからこそ、日本が清との日清戦争に勝って、下関条約で中国に初めて「朝鮮国の独立」を認めさせた時、これで長年にわたる屈辱から解放されたと喜んだ朝鮮人は、欣喜雀躍して独立門を建てた。これが今も大韓民国ソウル特別市にある独立門だ。つまりこれは「中国からの独立」を記念して建てられたものであり、朝鮮人もそれを明確に意識していたということなのだ。


 現在ある場所に建てられたのも理由がある。ここは、迎恩門といい、朝鮮歴代の王が中国皇帝の使者を迎えるにあたって土下座以上の屈辱的な三跪九叩頭の礼をさせられていた場所なのである。骨の髄まで中国文化(儒教文化)に染まっていた朝鮮は漢民族の国家である明が滅ぼされ、遊牧民族が清を建てた時、「野蛮人には従えない」と明に義理立てした。


 怒った清は朝鮮に「征伐軍」を送り、朝鮮の仁祖王を追い詰め「土下座(正確には三跪九叩頭礼)」をさせて服属させた。これは「神話」ではない、事実である。しかも、清国皇帝は「お前たち朝鮮人を滅ぼさないで済ませてやったのだぞ。恩義と思え」と強制し、歴代国王に三跪九叩頭礼を強制した。その場所が「迎恩門」なのである。


 日本が清に勝ち、朝鮮の独立を認めさせた時、まず朝鮮人たちが行なったことが迎恩門の破壊であった。そして、募金によって独立門が建てられたのだ。ところが、韓国の若い世代はこのことを知らない。「有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった」などというデタラメが学校で教えられているからだ。


 独立門前で「この独立って、どこの国からの独立?」と質問すると、多くの若者はそんなことも知らないのかと憤慨しつつ「日本からに決まっているだろう」と答える。しかし、そこで「でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは一八九七年だ。韓国併合は一九一〇年だし、光復(独立)は一九四五年だろう。それ以前の話なんだよ」と言うと、彼等は絶句し思考停止してしまう。



※週刊ポスト2011年12月16日





引用ここまで




井沢氏は本職・・・・あれ?何を書いていた作家だっけ?・・・・の他にオモシロ歴史物などで有名ですが、時には都会育ちの限界を表すこともありました。

 私が指摘した中では 「穢れと茶碗」(平成6年 祥伝社)の中で戦後の農地解放を論じて、大規模経営が小規模経営に縮小された・・・・とか。日本の地主制は、たとえばフィリピン なんかのプランテーション農業とは違い、小規模家族経営の農家の耕す農地の所有権を地主が持っており、小作料を徴収していたというだけなんですが。

 この記事も・・・・まあ私だって”半島の国家は新羅であれ高麗であれ朝鮮であれ、すべて「国王」すなわち中国 皇帝の臣下であった”・・・・と書くこともありますが、というよりしょっちゅう書いてますが(笑)、これを以って西洋流の属国概念で考えるだけではいけないんですよね。

 そう言ってしまえば足利義満もシナ様の臣下である日本国王でしたし、江戸時代を通じて対馬藩主は朝鮮国王の臣下でした。

 しかし、それらは当時の東アジアの国際秩序である華夷秩序に基づくフィクションに過ぎなかったという一面もあるのです。何しろ李朝は臣下であるはずの対馬を征伐しようとしたり 、正式な外交文書などに押す銅印などを与えていたのですから

 対馬征伐に失敗したあとはちゃんと外交官を送り込んで捕虜の返還交渉なんかもやってますしね 。つまり朝鮮はずっと華夷秩序という形式はともかく、イルボンは外国、という認識を持っていたのです。

 まあ華夷秩序には濃淡がありますから、日本は対馬や琉球という例外を除けば概ね秩序の枠外にいました。化外の民、東方の蛮族ですな。逆に濃い方の筆頭は朝鮮でして、事実上の臣下扱いされてもやむを得ないことが多々・・・・しかし井沢元彦・・・・”これで長年にわたる屈辱から解放されたと喜んだ朝鮮人は、欣喜雀躍して独立門を建てた”・・・韓国 に対する愛情はないのかーっ!!

 

 まあ私にもありませんが。

 ”独立門前で「この独立って、どこの国からの独立?」と質問すると、多くの若者はそんなことも知らないのかと憤慨しつつ「日本からに決まっているだろう」と答える”・・・韓国 に帰化した奇特なドイツ が社長を務める 韓国 観光公社の07年の日本語版ウェブページには

独立門のある場所は元々使臣を迎えた迎恩門のあった場所でした。迎恩門は中国 からの使臣がやって来たとき王が直接出迎えた場所で、外交の象徴だったこの門の後に1898年独立門が建てられました。

当時韓国 は日本に統治されていた時期。これに対し韓国 は日本を始めとする周辺の国々に独立への強い意思を表すため建てたのがこの門で、建設のための費用も国民の力によって集められたものでした。

 という文章、いや寝言がありました 。いくら井沢氏が”でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは一八九七年だ。韓国 併合は一九一〇年だし、光復(独立)は一九四五年だろう。それ以前の話なんだ”・・・と言い聞かせても無駄なのです。観光公社があれなんですから。

 やはり”「有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった」などというデタラメが学校で教えられているから”・・・なんでしょうか?しかし彼らが学校で教えられた、入試にも出ない科目を記憶しているとは・・・・・モンダイは学校以前なんでしょうな。

 そういえば韓国 観光公社の上記の一文は現在では

独立門(ドンニンムン)のある場所は元々使臣を迎えた迎恩門のあった場所でした。迎恩門は中国 からの使臣がやって来たとき王が自ら出迎えた場所で、外交の象徴だったこの門の後に、1897年、独立門が建てられました。この門は、長い間影響を与えてきた中国 韓国 を脅かす日本やロシア に独立性を表わすためのもので、建設のための費用も国民の力によって集められました。

 このように訂正されています 。やはり社長がドイツ 系になったから歴史認識が改められたのでしょうか?それとも悪辣なチョッパリ共に散々”説明板を見てごらん”・・・と諭されたからでしょうか?

 しかし1897年に書かれた説明版を今の韓国人に読めなんて無理を言っても・・・・・・・

草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員奮励努力セヨ。 


立入厳禁?アタチも漢字は読まないことに・・・・