刺客に殺された僧・了源。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【決断の日本史】1335年12月8日






デスマスク作り、「殉教」たたえる


 浄土真宗と聞けば、京都にある東、西両本願寺を思い浮かべる人がほとんどだろう。宗祖・親鸞の血をひく大谷家がいまも住職をつとめ、それぞれ全国に約1万の末寺、1千万人の門信徒を抱える大教団である。

 しかし、それは本願寺8世の蓮如(れんにょ)が出て以降の話である。室町前期(15世紀後半)までは、東国で親鸞の教えを受けた弟子たちゆかりの教団の方が、信者ははるかに多かった。

 鎌倉時代の僧、了源(りょうげん)(1295~1335年)が基礎を築いた仏光寺(ぶっこうじ)(京都市下京区)も本願寺を凌駕(りょうが)していた。了源は執権北条氏の一族(大仏維貞(おさらぎこれさだ))の家臣に仕えた人物で、「絵系図(えけいず)」というユニークな伝道法によって仏光寺を大教団に育て上げた。

 成功を収めた人間に対しては、ねたむ者も必ず現れる。了源は建武2年12月8日、鎌倉から京に戻る途中、伊賀国七里峠(三重県伊賀市)で刺客に襲われ、斬り殺された。

 東京国立博物館の特別展「法然と親鸞」(12月4日まで)に出展中の「了源坐像(ざぞう)」は、彼が亡くなった8年後に造られた高さ約82センチの木像だが、胎内には遺骨とともに、小さな頭部像(高さ約14センチ)が納(おさ)められている。

 津田徹英・東京文化財研究所文化財アーカイブズ室長は、「この小首は了源のデスマスク」とする新説を発表した。小首は目や鼻などが墨で描かれているが、右額から眉にかけて刀傷を思わせる跡がつけられ、遺骨の頭蓋骨にも同様の傷が残っていたからだ。

 「仏光寺教団は了源の非業の死を殉教ととらえてデスマスクを作り、のち正式な肖像が完成した際、胎内に納めたのだと思います」(津田室長)

 僧侶の肖像彫刻は数多いが、デスマスクを納めた例はない。了源の死がいかに衝撃的で、周囲から惜しまれたかを物語っているようだ。


                                     (渡部裕明)