夕刻の備忘録 様のブログより。
礼儀知らずの恥知らず、そして何より恩知らず。
この宇宙に無用の物。
一に枝野、二に蓮舫、三四が無くて五に河野。
原発事故早期収束に失敗した現政府の中でも、主犯中の主犯の癖に、何故か被害者面で堂々と伸し歩いている「首無し男」。「陛下の御前では使っていない」とは、控え室で携帯電話に興じていたことの言い訳に過ぎず、人の「誠」というものが何処を探しても見付からない「襟立て女」。そして、支離滅裂なる論理展開で、相手を煙に巻くことにかけては、流石の民主党にも対抗馬が居ない「国賊の息子」。何れ劣らぬ礼儀知らずの恥知らずであり、自分達が何によって今の地位を得ているかを考えない典型的な恩知らずである。
三者に共通の趣味は何か。「仕分け」である。
二年前に始まったこの世紀の茶番劇は、首と襟の出世街道の起点となった。現場の悪口を言い、官僚の天下りを罵り、国民の中に亀裂を作ることのみを目的として、大根役者どもが、派手に舞ったのがこの安物芝居である。そして、「そこに俺も入れろ」と騒いでいたのが「湘南の要らない太郎・河野太郎」である。
三者に共通の弱みは何か。「発育不全」である。
それぞれに何の理由でかは知らないが、「自分の知性に自信を持っている」ように見える。そして実際、そのように振る舞っている。まさに発育不全の中二病である。自信満々に相手に襲い掛かるが、秒速で反撃に遭い、ヌルヌルとした言い訳モードに突入する。
★ ★ ★ ★ ★
何よりスーパーコンピュータの仕分けで派手に打って出た二人に対抗するつもりか否か、要らない太郎もまた「京」に噛み付いた。
曰く「このコンピュータは限られた人しか使えない」と。当り前である、この計算機の使用が適当であるほどの問題を思い付く方が難しいのであるから。解けるか、解けないかの狭間にある問題でなければ、使用許可など出るはずもないのである。
また、それが「計算機村の計算機利権に繋がる」と吠えていた。そして、極め付けは「この計算機を使ったからといって、科学が進歩する保証などない」と鋭く、あくまでも本人の妄想中での“鋭い指摘”を連発していた。
これで海外の諸事情に通じているつもりなのだから、誠に恐れ入る。
アメリカを中心に世界は、日本をどのように批判してきたか。現実は違う、実際とは全く異なる話なのではあるが、彼等は一様に「日本技術ただ乗り論」を展開していたではないか。要するに、日本は基礎的な研究に必要とされる「莫大な無駄」をよしとせず、欧米が基本的な技術を開発した後に乗り込んで、主に改良によって莫大な富を成している、と批判していたのである。
簡単な話、彼等はもっと基礎技術に金と人を投下せよ。発見に伴う無駄金を惜しむな、と批判してきたのである。それをこの馬鹿どもが削りに削った。「科学が進歩する保証など無い」という河野発言は、襟立ての「二番じゃダメか」に匹敵するものである。また、同じ席で民主党のこれまたお先真っ暗の議員が、指を突き上げながら「一番を隠れ蓑にしていいのか、一番になるためなら許されるのか」と連呼していた。知性があっては民主党に入れないとみえる。
国民は何を欲しているか。
国民が国民たり得ることを感じるのは如何なる時か。
それは日本国の凄さを実感した時である。
日本は国民の質の高さで保っている国である。
全ての国民が、恐るべき潜在能力を持っている。
しかし、普段はそれに気付かない。
そのことに気が付くのが同胞の栄光である。
国家プロジェクトの成功である。
仕分けによる減額にもメゲずによく一位を取った。やはり日本のコンピュータ技術は世界有数のものである。これは誇らしい、非常に気分がいいと思っていた矢先に、「湘南の腐った風」がそれを台無しにしてくれた。別の場所では、「今回の震災を予言出来なかった深海調査など止めてしまえ」と担当者を詰った奴がいるらしい。もはや精神異常者である。科学者は競馬の予想屋ではない。科学がもっとも不得意とするのは一回性のものであることぐらい、小学生でも知っている。一回も一回、歴史上に特異な履歴を残した今回の災害を予見出来なかったから「止めてしまえ」などと罵った人間は、他人を罵る前に自分自身が人間であることを止めろ。
仕分けは百害あって一利なしである。
「無駄はよくない」などと賛同する国民がいるから、この連中は調子に乗るのである。無駄大好き、少なくとも無駄容認でなければ、こんな腐った政府の下で一日も暮らせないではないか。この連中こそ日本の歴史における特筆すべき無駄である。
しかし、我々国民は二千年を越える我が国の歴史は、こうしたゴミのような人間達を飲み込み、噛み砕いて歴史の片隅に追いやることを知っている。
もう一度繰り返す、仕分けは日本国民を分断し、その誇りを奪い、海外との競争力を弱める最大の暴挙である。何故、暴挙か。それは仕分けに関わっている議員の顔ぶれを見れば分かるではないか。まともな議員が寄りつかない場所、それが仕分けである。後は推して知るべしと言っておこう。
こんな連中に使っている税金と、科学の進歩に「役立つかもしれない」先端研究とを比較できるはずもない。要らない太郎の言うが如く、確かに役立つ保証は無い。しかし、研究者達の「逆境にも耐えて成果を出し続けているその姿勢」は、我々の誇りとなって100%役立っているのだ。研究の成果そのものではない、そんな研究を人知れず続けている立派な人達が居る、そんな祖国を誇りに思う、そうした国民意識の向上にこそ役立っているのだ。日本を「護るに値する国にする」ことに役立っているのだ。
それは先進国の宿命でもある。人類文化の先頭に立つ、国家の誇りを賭けた戦いなのだ。ノーベル賞の数で計るのではない、費用対効果で計るのでもない。国民がどれだけ一体感をもって彼等の活躍を見守り、その悲喜こもごもに感情移入が出来るか否かが問題なのだ。共に泣き共に笑う、明日の人類のために今日を耐える、それがいやしくも科学技術立国を謳う日本国の責任ではないのか。
この宇宙に無用の物。
一に枝野、二に蓮舫、三四が無くて五に河野。
原発事故早期収束に失敗した現政府の中でも、主犯中の主犯の癖に、何故か被害者面で堂々と伸し歩いている「首無し男」。「陛下の御前では使っていない」とは、控え室で携帯電話に興じていたことの言い訳に過ぎず、人の「誠」というものが何処を探しても見付からない「襟立て女」。そして、支離滅裂なる論理展開で、相手を煙に巻くことにかけては、流石の民主党にも対抗馬が居ない「国賊の息子」。何れ劣らぬ礼儀知らずの恥知らずであり、自分達が何によって今の地位を得ているかを考えない典型的な恩知らずである。
三者に共通の趣味は何か。「仕分け」である。
二年前に始まったこの世紀の茶番劇は、首と襟の出世街道の起点となった。現場の悪口を言い、官僚の天下りを罵り、国民の中に亀裂を作ることのみを目的として、大根役者どもが、派手に舞ったのがこの安物芝居である。そして、「そこに俺も入れろ」と騒いでいたのが「湘南の要らない太郎・河野太郎」である。
三者に共通の弱みは何か。「発育不全」である。
それぞれに何の理由でかは知らないが、「自分の知性に自信を持っている」ように見える。そして実際、そのように振る舞っている。まさに発育不全の中二病である。自信満々に相手に襲い掛かるが、秒速で反撃に遭い、ヌルヌルとした言い訳モードに突入する。
★ ★ ★ ★ ★
何よりスーパーコンピュータの仕分けで派手に打って出た二人に対抗するつもりか否か、要らない太郎もまた「京」に噛み付いた。
曰く「このコンピュータは限られた人しか使えない」と。当り前である、この計算機の使用が適当であるほどの問題を思い付く方が難しいのであるから。解けるか、解けないかの狭間にある問題でなければ、使用許可など出るはずもないのである。
また、それが「計算機村の計算機利権に繋がる」と吠えていた。そして、極め付けは「この計算機を使ったからといって、科学が進歩する保証などない」と鋭く、あくまでも本人の妄想中での“鋭い指摘”を連発していた。
これで海外の諸事情に通じているつもりなのだから、誠に恐れ入る。
アメリカを中心に世界は、日本をどのように批判してきたか。現実は違う、実際とは全く異なる話なのではあるが、彼等は一様に「日本技術ただ乗り論」を展開していたではないか。要するに、日本は基礎的な研究に必要とされる「莫大な無駄」をよしとせず、欧米が基本的な技術を開発した後に乗り込んで、主に改良によって莫大な富を成している、と批判していたのである。
簡単な話、彼等はもっと基礎技術に金と人を投下せよ。発見に伴う無駄金を惜しむな、と批判してきたのである。それをこの馬鹿どもが削りに削った。「科学が進歩する保証など無い」という河野発言は、襟立ての「二番じゃダメか」に匹敵するものである。また、同じ席で民主党のこれまたお先真っ暗の議員が、指を突き上げながら「一番を隠れ蓑にしていいのか、一番になるためなら許されるのか」と連呼していた。知性があっては民主党に入れないとみえる。
国民は何を欲しているか。
国民が国民たり得ることを感じるのは如何なる時か。
それは日本国の凄さを実感した時である。
日本は国民の質の高さで保っている国である。
全ての国民が、恐るべき潜在能力を持っている。
しかし、普段はそれに気付かない。
そのことに気が付くのが同胞の栄光である。
国家プロジェクトの成功である。
仕分けによる減額にもメゲずによく一位を取った。やはり日本のコンピュータ技術は世界有数のものである。これは誇らしい、非常に気分がいいと思っていた矢先に、「湘南の腐った風」がそれを台無しにしてくれた。別の場所では、「今回の震災を予言出来なかった深海調査など止めてしまえ」と担当者を詰った奴がいるらしい。もはや精神異常者である。科学者は競馬の予想屋ではない。科学がもっとも不得意とするのは一回性のものであることぐらい、小学生でも知っている。一回も一回、歴史上に特異な履歴を残した今回の災害を予見出来なかったから「止めてしまえ」などと罵った人間は、他人を罵る前に自分自身が人間であることを止めろ。
仕分けは百害あって一利なしである。
「無駄はよくない」などと賛同する国民がいるから、この連中は調子に乗るのである。無駄大好き、少なくとも無駄容認でなければ、こんな腐った政府の下で一日も暮らせないではないか。この連中こそ日本の歴史における特筆すべき無駄である。
しかし、我々国民は二千年を越える我が国の歴史は、こうしたゴミのような人間達を飲み込み、噛み砕いて歴史の片隅に追いやることを知っている。
もう一度繰り返す、仕分けは日本国民を分断し、その誇りを奪い、海外との競争力を弱める最大の暴挙である。何故、暴挙か。それは仕分けに関わっている議員の顔ぶれを見れば分かるではないか。まともな議員が寄りつかない場所、それが仕分けである。後は推して知るべしと言っておこう。
こんな連中に使っている税金と、科学の進歩に「役立つかもしれない」先端研究とを比較できるはずもない。要らない太郎の言うが如く、確かに役立つ保証は無い。しかし、研究者達の「逆境にも耐えて成果を出し続けているその姿勢」は、我々の誇りとなって100%役立っているのだ。研究の成果そのものではない、そんな研究を人知れず続けている立派な人達が居る、そんな祖国を誇りに思う、そうした国民意識の向上にこそ役立っているのだ。日本を「護るに値する国にする」ことに役立っているのだ。
それは先進国の宿命でもある。人類文化の先頭に立つ、国家の誇りを賭けた戦いなのだ。ノーベル賞の数で計るのではない、費用対効果で計るのでもない。国民がどれだけ一体感をもって彼等の活躍を見守り、その悲喜こもごもに感情移入が出来るか否かが問題なのだ。共に泣き共に笑う、明日の人類のために今日を耐える、それがいやしくも科学技術立国を謳う日本国の責任ではないのか。