【決断の日本史】645年9月12日
除かれたもう一人の実力者
皇極天皇4(645)年6月、朝廷の実権を握っていた蘇我入鹿(いるか)と父の蝦夷(えみし)が中大兄皇子らに討たれた。このクーデターは干支(かんし)から「乙巳(いっし)の変」と呼ばれ、大化改新の幕開けとなった。
この頃、朝鮮半島の国々は、強大化する唐帝国に対抗できる軍事態勢をつくりあげるための権力集中を模索していた。日本もそれは同じで、天皇家を中心とした集権化の動きが蘇我氏打倒となって現れたのである。
今回は、「乙巳の変」の中で生涯を終えることになった悲劇の人物を取り上げたい。古人(ふるひと)大兄皇子。舒明(じょめい)天皇と蘇我馬子の娘・法提郎媛(ほほてのいらつめ)の息子で、中大兄皇子には異母兄にあたる。
いとこ同士ということもあって、入鹿は彼を次の天皇に立てようと図った。そのため、邪魔な山背(やましろ)大兄王(聖徳太子の息子)の殺害まで実行している。クーデターさえなければ、古人の即位は実現していただろう。
古人は6月12日の入鹿斬殺の現場に居合わせた。『日本書紀』は皇極天皇が弟の軽(かる)皇子(のちの孝徳天皇)に位を譲ろうとしたものの、軽皇子は古人に即位を勧めたと記す。しかし、古人が固辞し出家したため、ようやく位を受けたとも書く。
「入鹿という後ろ盾を失った古人に、即位の誘いがあったというのは不自然。真相は皇太子的な立場から失脚したとしか考えられません」
古代史家の吉川真司・京都大学教授は『書紀』の記述を疑問視する。実際、古人は吉野に退いたものの9月12日、謀反の罪で殺されてしまう。
皇位を争う立場の皇子が突然出家し、吉野に引きこもってやがて決起する。「乙巳の変」から27年後に起きる「壬申の乱」の大海人(おおあまの)皇子(のちの天武天皇)とそっくりではないか。古人は争いに敗れ、皇位の夢は実現できなかったのだが…。(渡部裕明)