安保なき「国家戦略会議」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【世界のかたち、日本のかたち】大阪大教授・坂元一哉




■安保なき「国家戦略会議」

 「戦略」は日本人がもっとも好む言葉の一つかもしれない。書店に行くとビジネスから恋愛まで、実にさまざまな「戦略」本が並んでいる。誰かそのことと憲法の「戦争放棄」の関係を心理分析してくれないだろうか、と思うことも時々ある。

 もちろん、ビジネス戦略や恋愛戦略という際の「戦略」は、扱う主題に関して、目的と手段を合理的に考える、といった意味以上のものではない。だから戦争とはまったく関係なく、ビジネス「戦略」や恋愛「戦略」が語られても、別におかしくはないだろう。

 しかし国家「戦略」となればどうか。政府は先月、「国家戦略会議」を発足させた。首相の下に産官学の英知を結集し、重要政策の基本方針をとりまとめて、国家の中・長期的なビジョンを構想する会議だという。内外多難な日本のかじ取りのために、そういう政策の「司令塔」を設けるのはよいことだし、必要なことだと思う。

 ただ、この会議の趣旨説明を見ると、「国家戦略会議」という名称には多少の違和感を覚えざるを得ない。というのも、この会議では議論の中心が「税財政の骨格や経済運営の基本方針」に関するものになりそうだからである。

 むろんそれらも国家「戦略」の大事な一部ではある。だが国家の第一の目的は、国民の生命と財産の保護にある。国家「戦略」という以上は、いかにして戦争を防ぎ、万一戦争になった場合にどう対処するか、その合理的手段を考える安全保障の議論が中心になるべきではなかろうか。そうでなければ、この会議の名称は国家「財政・経済」戦略会議とした方がよいかもしれない。

 もっとも「財政・経済」の議論が安全保障の問題と深く結びつくところはある。そこはこの会議でもしっかり議論してほしい。

 とくに防衛費の問題。わが国の防衛費は、過去10年近く削減が続いている。現在のアジアの国際環境においては、かなり異常な事態である。アジア諸国(オーストラリアを含む)はいま、中国の大軍拡をにらみ、おしなべて軍事予算増に努力している。厳しい財政事情があるにせよ、わが国だけが予算減を続けるというのは、安全保障の観点から、まったく望ましくない。

 昨年末にできた新しい防衛大綱は、防衛予算が削減されるなかでも、自衛隊の運用改善によって中国の軍事的台頭に対応するという姿勢を明確にした。それは高く評価できるが、そのことが継続的な防衛予算削減の正当化につながっては困る。自衛隊の現場では、新規装備の導入が遅れる中、既存の装備に老朽化が目立ち、弾薬や部品の備蓄も不十分で、個々の部隊の実力低下が危惧されている。防衛費削減は限界に来ているのである。

 具体的に、防衛予算(今年度約4兆8千億円)をどの程度増やすのが望ましいか。それについてはいろいろ議論がある。だが関係者は、3千億円程度の増加があれば、かなりの回復が期待できると見ている。

 いまの緊縮予算の中でもそれだけの増額を捻出すべきか、また捻出できるか。新しい会議でそうしたことも議論されるならば、会議の名称と実態はより整合性のとれたものになるだろう。

                                 (さかもと かずや)