【安藤慶太が斬る】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111106/edc11110607010000-n1.htm
危惧していたことが現実になりつつある。沖縄県の八重山採択地区(石垣市、与那国町、竹富町)の教科書採択問題だ。このままでは大切な採択制度が崩壊してしまう。そんな懸念を抱いている。正規の手続きで選んだ中学校の公民教科書(育鵬社)の採択を、竹富町のみが拒否し続けて始まったこの問題は、10月26日になって突如、中川正春文部科学相が衆院文部科学委員会で新たな方針を示した。これが問題だらけの中身だったのだ。
中川裁定について
“中川裁定”の第一点目は協議会の答申通りの採択をした石垣市と与那国町は無償措置法の対象とするが、竹富町は無償措置法の対象としないというものだ。同一採択地区では同一教科書を採択しなければならないと無償措置法は定めており、竹富町はこれに違反しているというわけである。
ただし、竹富町が町の自前の予算で育鵬社とは別の教科書を自費購入することは違法ではないというのが第2点目だ。
この方針には沖縄メディアはじめ全メディアが一斉に反発、批判を浴びせている。だが、ほとんどのメディアは竹富町を有償にするのはけしからん、という視点に立っている。
憲法違反?ホントか?
彼らはいう。憲法26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」とある。竹富町を有償にするのは、等しく教育を受ける権利を奪う差別的な取り扱いであって、この規定に違反する疑いありだと。中には憲法違反の指摘に文科省は答えよ!と糾弾調の地元紙もあった。一見もっともらしく思う人もいるかもしれない。だが惑わされてはいけない。
沖縄メディアの文科省見解への違和感
私たちもかなり以前に竹富町を有償にする、という選択肢はじめいろいろな事態を法的に検証してきた。
まず、竹富町がこのまま採択を変えずに通した場合、無償措置法違反となる点について考えてみた。一体、竹富町にどのようなペナルティが可能か。
石垣市ではこれまでも再三、竹富町側に対して、協議会の答申と異なる教科書を採択すれば、無償措置法に反してしまう。その場合、無償措置法の対象にならない、とアドバイスしていた。ところがこれに竹富町はじめ沖縄メディアは全く聞く耳を持たなかったのである。それどころか「教科書の無償措置の対象外になることはあり得ない」としていた。あたかも石垣市が竹富町にデマをもちかけて育鵬社採択を促している、けしからん、といった書きぶりで、石垣市の法解釈が未熟だとまで批判を浴びせたメディアすらあった。
が、私にはこの時から、不思議でならかった。本当か?協議会の結論と違った教科書を協議会内の一部自治体が希望する前例は今までもあったからだ。前例ではいずれも最終的には協議会の結論通りに採択してきた。そのときの国や都道府県の指導は「無償措置法の対象とはならなくなる」というものだったからだ。沖縄メディアが文科省の見解として紹介している「無償措置法の対象外になることなどあり得ない」という説明は今までの文科省の指導とは明らかに異なっていた。これに私は違和感を覚えたのだった。
無償にするか否かの権能は国にある
確かに採択権は法律では市町村教委に与えられてはいる。しかし、最終的に竹富町を無償にするかどうかの権能は国にある。違法のまま、国に採択結果が報告され、それを国が無償と認める。これでは、国までが違法行為を容認したことになってしまうだろう。こういう判断が国として果たして許されるのだろうか。信じられない光景だ。
無償措置法には罰則などは明記されていない。しかし、無償措置法にある規定を守らない地方自治体までが無償措置の恩恵を受けてしまっては、何のための法律かがわからなくなる。従って無償措置の対象外になるという判断は、成り立ちうるのではないかと考えたのだった(後述するが、私は竹富町を対象外にすればいいとは考えてはいない。まず竹富町が法律を守る以外に解決策はないのであって、国と県が然るべき指導をしなければならないというのが私の考えだ)。
憲法の義務教育無償の対象は授業料
無償措置の対象外になるという判断は、成り立ちうるとして憲法には「義務教育は、これを無償とする」とある。これに抵触しないだろうか、ということも考えた。その結果、これは抵触しないだろうと結論づけた。
いや正確に言うと、憲法違反だと裁判を起こす輩はいるだろうが、憲法との絡みで国が敗訴する可能性は限りなくゼロに近い、という風に考えた。
義務教育の無償という規定はどこまでを無償にすればいいと定めたものか、という話はすでに司法的にはほぼ決着済みの話だからだ。憲法が国の義務として義務教育を無償にするといった場合、それは「授業料無償」という意味だとする判決が出ているのである。
考えてもみてほしい。学校教育にはいろいろと費用がかかる。授業料があって、施設費があって、教科書代があって、それ以外の教材費だってかかる。さらにいえば修学旅行の積み立てもあれば、給食費もかかるだろう。これらをいちいち憲法を盾に「義務教育は無償だろう!タダにしろ」と迫られたらどうなるか。際限なく税金がかかって仕方がないし「応分の負担という議論を許さない」「受益者負担を絶対に許さない」というのは誤りだろう。窮屈なことこのうえない話でもある。
でも、最近でも困窮しているわけでもないのに給食費を払わなくていいと本気で考えている親は大勢いて問題になっている。こういう人はいつの世の中にも必ずいるものである。過去にも憲法にある「義務教育は無償」という規定を使って裁判を起こした方もいて、そういう要求に司法が示した一線が「授業料」というわけである。はっきり言っておくと教科書は憲法のいうところの「義務教育=無償」の対象外なのである。
教科書無償措置法の意味
だったら、なぜ教科書は無償なのか、という人もいよう。これは憲法の定めた義務ではないが、憲法の精神を踏まえて、政策的に法律を定めてやっている制度である。
いい制度である。米百俵ではないが国の財政が苦しくても、明日を担う子供達には教科書を無償で与える。世界には教科書も不自由する子供達だっている。貧しくて、十分な教育を受けられない子供だって少なくない。だが、日本は違うのである。憲法で義務教育を無償にしていることに加えて、教科書も無償にしているのだ。
君たち子供達はその有り難みをしっかり認識して、教科書を大切にしてしっかり勉強しなさい、という話である。
だが繰り返すが、教科書は政策の判断で講じられたものであって、憲法規定の要請に基づき義務として課されたものではない。教科書が有償になったからといって、直ちに憲法違反の問題が発生する、という話ではないのである。
文科省は“中川裁定”を公表する前に内閣法制局とも詰めたそうである。沖縄のメディアはじめ、「憲法違反だ!」の大合唱で訴訟を起こされるかもしれない。裁判である以上、それはそれで、個々に判断されるわけだが、過去の判例に照らしたら勝算あり、違憲となる可能性は少ないと政府は判断したはずである。私のなかでは決着済みの問題だっただけに方針発表後の今になって「憲法違反だ!」と居丈高に迫る新聞を見るたびに、「何だかなあ」という思いがするのである。
法律はパッケージである
中川裁定に憲法上の問題はないとしても、しかし私は違う意味で大いに問題あるとは考えている。それは裁定が竹富町に不利益を及ぼすからではない。そうではなくて竹富町の違法を容認・放置することで全体の制度や秩序が瓦解してしまう恐れがあるからである。
先ほども述べたが、教科書をどれにするか。決める判断は確かに市町村教委に権限がある。竹富町に自分たちの町の教科書を決める権限がある。法律からは確かにそう読み取れる。
だが、それは竹富町の望み通り、好き勝手に、あるいはフリーハンドに決めていいということにはならない。
なぜか。いくら権限があっても、地方自治体は法律を全て満たすような形で採択権を行使しなければならないからだ。
法律というのはパッケージである。A法、B法、C法…といろいろな法律があって、全て満たさないといけない。嫌いな法律、都合が悪い法律だから守りません、とはいかない。法律に基づき事務を執り行う地方自治体ならなおさらである。
しかし、竹富町がやっていることはそうではない。「A法だけはうちは守りません」と言い出しているに等しい。文部科学省が法律を満たさない竹富町について無償措置法から離脱させるというのも、いかに可笑しな意味を持つか。おわかりだろう。
後出しじゃんけんと頬被り
竹富町は自分で採択協議会を法律に基づく協議の場だと認め、最後まで臨んでいたではないか。採決したら、自分が推す教科書とは別の教科書に決まる前後から、協議会に反旗を掲げ、難癖をつけ、揚げ足を取る。協議会の答申には法的拘束力がない、などともいいだした。自分の法律違反には頬被りし、ほとんどは後出しじゃんけんである。
しかし、無償措置法というのは国権の最高機関である立法府の採決で決められたものだ。個々の採決を選挙で国民に選ばれた国会議員が行ったものである。
法律に基づく適正な手続で結論が出された協議会の結論をいとも簡単に反故にして憚らない。自分の法律の違反には耳を貸さず、認めず、改めずの竹富町こそ民主主義を蹂躙しているようなものである。
特に見逃せないのは竹富町側から発せられる育鵬社教科書に対する発言だ。反戦、平和運動家のおだてられるままに吐いたとしか思えないような口を極めた罵詈雑言もある。とても自治体を代表する者とは思えない発言もある。育鵬社の教科書を竹富町が採択することが、どうして子供達を戦争に駆り立てることになるのか、理解不能な批判すらある。
拝金的モラルハザードを生む
竹富町はじめ沖縄メディアも県教委も自分たちのやっていることが全体の制度をいかに脅かしているかという視点に欠けている、といわざるを得ない。
また中川氏もまた制度に関する熟慮に欠けている、と思う。もし、このような竹富町の「ごね得」を許すとどうなるか。まず、何のための協議会なのか、ということになる。同じ採択地区は同一教科書にするという規定によって協議会が作られ、採択作業を進めていく。法律を踏まえて出来た協議会の結論がこれほど簡単に葬られてしまっては存在意義がなくなるだろう。
また有償で竹富町の選んだ教科書を教科書として認めるというのも問題である。これはいざとなったら金を払えば希望の教科書を選べるという拝金的な考えを生みかねない。いざとなったら無償措置法離脱なんて容認したら、好き勝手が罷り通るだけでなく、法治主義自体が揺らぐだろう。 そういうことで私は竹富町が法律に基づく採択をするよう、国も県も真剣に指導すべきだと思う。事は初等中等教育の根幹を守れるか否かという大問題である。中川氏はそういう重大な問題を背負った判断であるということを十分認識して事に当たってほしい。
(安藤慶太社会部編集委員)