【古典個展】立命館大教授・加地伸行
投げ込みの広告チラシがあった。美容院の宣伝である。
大きな字で「カット専門」とある。なるほど。しかし、この「カット」のところをわざわざ英文アルファベットで印刷している。すなわち「cut」のつもりで。
ところがなんと、「cat」となっている。catだとキャット、ネコちゃんですよ。その美容院はネコ専門なのでしょうね。
もっとも、cutであろうと、catであろうと、現実ではそんなこと問題にもしないであろう。一般人にとっての英語とは、その程度のものである。
にもかかわらず、偉い人たちは英語の端くれ単語を混ぜて話すことがよくある。イノベーションがどうの、ガラパゴスがこうの、と。
けれども、ここは日本ではないのか。日本であるならば、まずはきちんとした日本語を使うのが筋であろう。さらには、日本人であるならば、正しい国語を使うべきである。
日本語と国語とは違う。
日本語と言うとき、それは、日本人が使っていることばをまねて、ともかくなんとか意志を通じさせる形のもの。例えば、店で「わたし、これ買う。おつり、いるよ…」と言えば、なんとか通じる。
つまり、日本語とは、外国人向きの技術的なものである。当然、日本人だと日本語ペラペラ。
けれども国語は違う。日本人でも国語のできない人はたくさんいる。国語とは、〈国〉家の歴史・文化・伝統を背景として発展してきた言〈語〉であり、略して国語と言う。だから、日本の歴史・文化・伝統の素養のない外国人に国語学習は無理なのである。例えば「もののあはれ」という国語を理解し感受できる外国人は絶無に近いことであろう。
当然、その逆もある。われわれ日本人が英語を学んでも、せいぜい「cut専門」に直す程度であり、英〈国語〉の理解や感受は、まず無理なのである。
ところが、今年9月、テレビニュースがこう報道していた。東大の大学院が外国の制度に合わせて「秋入学」を行うようになったと。そして東大総長が式辞(告辞)を英語で行ったシーンが流れた。
驚いた。ここは日本ではないか。日本に留学したい外国人は、当然にまずは日本語を学ぶべきである。
その昔、私が学生時代、用件で故宮崎市定(いちさだ)教授(東洋史)の研究室を訪れたところ、先客があり、待つこととなった。先客は若いフランス人で、たどたどしい日本語ながら懸命に質問していた。大宮崎の学問に対する敬意にあふれて。
それが日本に留学する学生のあるべき姿、道理である。
にもかかわらず、留学生に分かりやすいようになどという損得の観念で英語による式辞を行うのは筋が違う。しかも、独、仏、中など多種多様の言語の中から、なぜ英語なのか。その理由はなになのか。独、仏、中…からの留学生にしてみれば、不愉快となるだろう。
東大が日本を代表する大学という自負があるのならば堂々と国語で、それも伝統的な漢文脈で荘重に述べよ。古人曰(いわ)く「君子(教養人)は義(道理)に喩(さと)り、小人(知識人)は利(損得)に喩る」(『論語』里仁篇)と。
(かじ のぶゆき)