【決断の日本史】1854年9月18日
梅田雲浜、妻子との別れ
「攘夷」思想に生きる
先の戦争がもたらした最大の痛恨事は、若い有為の人材が失われたことである。これにより、戦後日本の歩みは変化を余儀なくされた。それとは比べるべくもないが、明治維新期にも多くの逸材が時代の犠牲となった。
安政5(1858)年、大老・井伊直弼によって始められた「安政の大獄」も悲劇の一つである。吉田松陰や福井藩士の橋本左内、儒学者の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らが命を落とした。今回は大獄の最初の犠牲者、梅田雲浜(うんぴん)(1815~59年)について書いてみたい。
雲浜は若狭小浜(おばま)藩(福井県小浜市)の武家に生まれた。儒学を学び、尊王攘夷(じょうい)の思想が芽生えた。嘉永5(1852)年、幕府批判をしたため藩を追放となり、京に上って尊攘派の志士や公家と交わった。妻子があったが、儒学塾による収入だけだったから、生活は貧しかった。
安政元(1854)年9月18日、提督プチャーチンに率いられたロシア軍艦が大坂湾に入港するとの情報が雲浜にもたらされた。このとき、妻の信子は結核を病み、3歳の長男・繁太郎は枕のそばで泣いていた。
《妻は病床に臥(ふ)し、児は飢えに泣く。身を挺(てい)して直ちに戎夷(じゅうい)を払わんと欲す。今朝、死別と生別と。唯(ただ)、皇天后土(こうてんこうど)の知る有り》
このような家族を残し、自分は一身をなげうって外敵を打ち払うため出発する。再び生きて会えるかどうかは天地の神々だけが知っている…。
「訣別(けつべつ)」と題したこの漢詩を残して、雲浜は十津川郷士を率いて大坂に向かった。しかし、ロシア艦は去った後だった。むなしく帰宅した雲浜を迎えた信子は翌年3月に病没し、繁太郎も次の年に亡くなった。このエピソードは、自らの信条と家族の暮らしのバランスをどう取っていくかという難題を突きつけている。
(渡部裕明)