中秋の夜長はお神楽で。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【東京特派員】湯浅博




秋の夜長に虫の声だけが聞こえていた。靖国神社の中秋の夜は、神楽笛の澄んだ音が拝殿に流れる。静寂を破る透明な音色に、和琴のみやびな音が続く。やがて、4人の巫女(みこ)が榊(さかき)を掲げながら拝殿にのぼってきた。ゆるやかな舞着のすれる音が小気味よい。「中秋のお神楽の儀」が始まった。

 靖国神社への参拝は8月15日の終戦記念日と決めていた。せめて春秋の例大祭にお参りしたいと思うが、いまだかなわない。幸いなことに、友に誘われてのぞいた中秋の神楽の儀は格別であった。

 「ちはやふる神の心にかなふらむ 我がくにたみのつくすまことは」

 神の御前にささげる民の真心を歌った明治天皇の御製である。句頭の歌に合わせた静かな神楽舞であった。月が本殿を照らし、夕刻に参拝をするビジネスマンや若いカップルも、拝殿の儀式を静かに見つめている。

 若い頃から山登りをしていたせいか、山里の小さな神社をお参りするのが好きだった。神楽奉納に足を止め、時を忘れて見入ったこともある。背後の山々には初冠雪があり、ふもとの秋色と神楽の素朴な舞がみごとに溶け合った。

 季節がめぐれば、ひな祭りなど村行事も楽しい。春のしるしのネコヤナギや、桃の枝をひな壇に飾る。子供たちは家々を回って、「おひな様を見に来ました」と楽しげだ。おひな様は決して神様ではないが、節句のこの時だけは子供たちの前で神格化する。日本の村里には、美しく楽しげな伝統文化が息づいていた。

 日本人は全国各地に村の鎮守をつくり、境内には「大東亜戦没者之碑」を建てた。戊辰戦争以来、国のために死んだ英霊は、こちら靖国神社に祀(まつ)られた。靖国は墓地ではないから、鎮魂、つまり霊だけが祀られている。

義母は病床で「一度、靖国に行っておきたかった」と言って亡くなった。学徒出陣で戦死した親戚への思いであろう。だから、靖国の空間はいつまでも神聖な場所であって、元来、右か左かの思想からは縁遠いはずである。

 あれは3年前であったか。中国人映画監督の李某なる者が「靖国 YASUKUNI」というドキュメント映画を作った。はじめから政治的な色彩が強く、8月15日の異様な光景にのみ焦点が当てられていた。

 英霊を祀る静謐(せいひつ)な祈りが排除されたのは、映画のコンセプトが「靖国神社のご神体は日本刀」だったからだ。村の鎮守になじんだわが身には、「鏡や玉はどこへいったのだろう」と思う。

 靖国神社のご神体は鏡と剣であり、どちらが欠けても成り立たない。さきの中秋の晩も、神楽舞が終わって本殿をお参りすると、正面に一抱えもある鏡が鎮座していた。かの映画監督は剣だけを取り出し、「武」のイメージを極大化したかったのだろう。

 日本人の祈りは、死んだ人の魂に対して生きている自分を確認し、「生きる」ことを実感する場でもある。鎮守の森で遊び、お盆に灯籠を流し、神楽を捧(ささ)げる心がなければ理解しがたいか。

 靖国で演じられた神楽の中に、いまも多くの神社で舞われる「浦安の舞」があった。

 「天地の神にぞいのる朝なぎの 海のごとくに波たたぬ世を」

 静かな海のように世の中が平和であることを祈った昭和天皇御製だ。昭和15年に全国の神社で奉奏され、神前神楽の代表作になった。巫女による鈴舞の音は、中秋の夜に美しく響き渡っていた。


                                  (ゆあさ ひろし)