小回り生かし、東日本大震災で大活躍の掃海部隊。
岩手県陸前高田市で、行方不明者の捜索を続ける自衛隊員(2011年4月10日)〔AFPBB News 〕
3月11日に発生した三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震及びこの地震により発生した大津波は、東北地方に甚大な被害をもたらし、死者1万5769人、行方不明者4227人、全半壊家屋27万5258戸を数えた。(9月6日現在)
海上自衛隊は、“From the Sea”を合言葉に発災直後から艦艇約60隻、航空機200機以上、人員約1万6000人を投入し、捜索救助活動、救援物資の輸送、離島など孤立地域に対する支援、宿泊、入浴、医療支援などの活動に従事した。
その結果、被災者約900人を救助し、ご遺体約420を収容した。また、約1100回の航空機などによる物資輸送を行い、糧食23万5000食のほか水、毛布、燃料等多数の物資を輸送した。8月31日、防衛大臣からの大規模震災災害派遣終結命令を受け活動を終結した。
海上自衛隊が派遣した部隊のなかで、有事、我が国周辺海域に敷設された機雷を掃海し、また逆に、敵の侵攻を阻止するため主要港湾などに機雷を敷設する任務を有する掃海部隊は、その小型艦艇ならではの小回りの利いた機動力を生かし、また、水中処分員の能力を存分に発揮し捜索救難活動、物資輸送、港湾調査、医療支援などを実施した。
“海猿”に負けない“鉄の男たち”の活動状況と活動を支えた日常にスポットライトを当ててみることにする。
東日本大震災における掃海部隊の活動状況
今回掃海部隊を指揮した掃海隊群司令の福本出海将補は発災時、庁舎内にいて尋常ではない揺れに危機感を覚えた。
津波の被害を回避するため直ちに横須賀船越港内にいた掃海艦「やえやま」(1000トン)に出港を命じるとともに、シンガポールで実施される西太平洋掃海訓練に参加するため、すでに沖縄に進出していた掃海母艦「ぶんご」(5700トン)、掃海艦「はちじょう」(1000トン)、掃海艇「みやじま」(510トン)を呼び戻すことを決意し、上級司令部に進言した。
また、平成5年7月12日に発生した北海道南西沖地震、いわゆる奥尻島地震の災害派遣で得た教訓から、水中処分員(EOD:Explosive Ordnance Disposal:水中に潜り敷設された機雷の処分を行う隊員)の必要性を感じ、隷下部隊から2チーム(8人)を召集するとともに、災害派遣の正面ではない、呉、佐世保、舞鶴の各地方隊所属の水中処分員の応援を要請した。
掃海隊群旗艦の掃海母艦「うらが」(5650トン)は発災時造船所で修理中であったため、掃海隊群司令部は陸上で業務を行っていた。
沖縄を発ち13日午後6時頃に横須賀に到着した「ぶんご」に救援物資などを搭載するとともに、司令部を「ぶんご」艦内に移転し、午後9時頃三陸沖に向け横須賀を出港した。
現場到着後、離島や陸路が寸断され牡鹿半島先端部の孤立地域に救援物資を届けようとしたが、海面上には魚網や漁具、家屋、コンテナ、無人漁船など多数の浮流物があり、水中にも津波で流されてきた車や電信柱など多数の障害物があるため、掃海艇で岸壁に近づこうとしても近づけなかった。

さらに夜航海の際、頼りになる灯台や航路標識の明かりが消えており、また、灯浮標などは流されて位置がずれており、航行に多大の支障があった。
仕方なく、掃海艦艇に搭載しているゴムボートで近接したが、浮流物の魚網をプロペラに巻き込んで航行不能になる恐れがあるので細心の注意を払いながら航行した。
福本群司令は、被災者への支援活動を実施するに当たって、隷下部隊隊員に「顔の見える支援」「血の通った支援」を行うよう強調した。また「御用聞き」に徹するようにも指導した。
被災者から「毎回別の人が来るので、同じことを何度も言わなければならない」というのを聞きつけて、掃海部隊では、避難所には同じ艇の同じ隊員を行かせるようにし、さらに、相手が話しやすいようにとベテラン隊員を行かせる配慮もした。
救援物資には「頑張ってください」と手書き
また、若い隊員は、救援物資が詰まったダンボールに届先名とともに、「頑張ってください」などとメッセージを書くなどきめ細かい気配りを行っていた。
群司令自らも被災者のいる体育館に行き、救援物資を届けに来たことを伝え、また、足らない物資は何ですか、困っていることは何ですかなど被災者の生の声を丁寧に聞いて回った。
今回の災害派遣では掃海部隊、特に水中処分員の水中捜索での活躍が期待されたが、瓦礫などの浮遊物、汚濁した海水および30センチ先も見えないという最悪の水中視界に遮られ、活動当初は潜ることができなかった。
それでも、寒風吹きすさぶなか、ゴムボートの上から、あるいは浮流している瓦礫の上に乗って行方不明者を探し続けた。その結果、掃海部隊全体で171人のご遺体を収容した。
行方不明者のご家族から、「流された車の中に家族がいるかも分からないので探してほしい」という依頼を受け水没した車の中に入って捜索を実施したり、漂流中の家屋の中に入って捜索をしたりした。それにより流された家屋の中からお1人のご遺体を発見し収容した。
行方不明者の捜索現場には、このような作業に慣れている水中処分員を中心とした担当分隊(通常の航海、訓練などで主に甲板上の作業を行う分隊)の隊員を派遣したが、他の分隊(レーダーマン、機関員、調理員等)の隊員も被災者のために何かをしたいとの思いが強く、「是非自分も行かせてくれ」という希望者が多かったので、機会を見てボートに同乗させた。
このような過酷な捜索に当たっている隊員は、当然のことながら大変なストレスが溜まっていると思われる。ある中堅の水中処分員は「肉体的にも精神的にも非常に疲れますが、この仕事は我々にしかできない仕事であり、我々が最後の砦だと思って頑張っています」と答えていた。
また、現場に派遣された隊員は、異口同音に被災者からの「ありがとう」の一言で疲れが吹き飛んだと言っている。一様に高い使命感を持って任務を遂行したが、経験の少ない若い隊員には非常につらい仕事であったと想像できる。
ベテランの隊員と比べると水中作業に使用する酸素ボンベの空気消費量が多く、それは緊張の中で働いている証拠である。この緊張感が積もり積もってストレスの原因となる。
1日の作業が終わった後、水中処分員が一同に集まり、その日の作業を振り返って自由に話をさせることでメンタルダウンを防いだ。
このような過酷な環境の中で水中処分員をはじめ、掃海部隊の隊員が遺憾なく日頃の力を発揮できたのは、これまでの訓練で培われた一人ひとりの作業に対する技術、チームワーク、高い使命感があったからである。さらに付言すれば、これまでの災害派遣で培った経験もあると思われる。
日頃の訓練が今回の活動を支えた
今回の東日本大震災において掃海部隊が最前線で活躍しているとの話を聞き、掃海部隊は従来海難事故等のたびに出動していたことを思い起こした。
先輩から出動の体験談や教訓を聞かされて、その経験則を訓練などに生かしながら勤務してきたことが、今回の活動の支えになっている。
船員法の第14条に船長の職務として遭難船舶等の救助が規定されている。また、海技試験においても、船長の義務の1項目として問われたことがあった。
従って、海上における遭難者の救助は船乗りの務めと我々は理解していた。また、SOSを受信したら救難に向かうのは船乗りとして当然のことと考え、船乗りであれば、何時かは遭遇する事象だとも考えていた。
掃海部隊は日頃から漁業関係者と同一海面で作業や訓練をすることが多く、捜索や救助の依頼を受けることがあり、その際、漁師が言うには「ホトケを見つけて遺族に引き渡すことは神様の導きであり幸運なことだ。いつ何時自分たちがそうなるとも限らない」と聞かされていた。
相模湾でのヘリコプター墜落事故
今から約35年前、私がまだ初級幹部の頃、溺死者に遭遇したのを皮切りに多くの航空救難に派遣され救難作業を行ってきたが、ここでは、相模湾でのヘリコプター墜落事故の際に、捜索・救難指揮官として勤務した体験を述べてみたい。
約1カ月の行動を終え母港の横須賀港に帰り、まさに1番舫いを取った時、相模湾において発生した掃海ヘリコプターの航空救難の情報を入手した。入港準備を出航のための航海当番に配置換えし、緊急船舶の灯火を掲げ直ちに現場に向かった。
現場に到着後まず最初に悩んだのは、墜落地点である。
初認した艦からの連絡では、墜落地点は北緯○○度○○分東経○○度○○分との通報であったが、私は○○分以下の秒の単位の値が欲しかったので、再度詳しい位置情報を要求したが回答は同じであった。
これでは誤差の範囲が1852×1852メートルあり、水中でこの範囲の捜索に費やす時間は多大なものとなる。
水面の浮流物などから水没地点を推測して捜索を開始したが、水没地点はそこではないとの指摘を受け、通報を受けた地点の捜索に戻らされた。このため数日のロスタイムを生じてしまうことになった。
海底にある遭難機を捜索する方法は、海底をメッシュに区分してその1つの区画をソナー(機雷探知機)で丁寧に捜索し、「ここにはない」という区画を拡大していく方法で行わなくてはならない。
大雑把に捜索して目標を見落としでもしたら元も子もなくなってしまうので、水没地点の予測には飛行高度・速力・針路および通報した艦艇等の探知手段や精度の情報を総合的に分析して決定し、そこを水中捜索の基準点としていた。
水深740メートルの海底にやっとのことで機体を探知、そこを海底捜索の新基準点とした。まずは機体が分断されていないかを確認した。機体は分断されていなかったが、カーゴハッチが開いており、このため、乗組員は機外に放り出されている可能性が高いと判断した。
そこで8人のうち何人が機体の中に残っているのかを確認し、まず機体から放り出された搭乗員の捜索に全力を傾注した。
そして、機体外に放り出された搭乗員を発見したが、そこはダイバーが潜れる水深ではなかったので、マニピュレーターで搭乗員を大きなケージに移し、水深20メートルまで引き上げ水中(ケージの中)で、皮膚が露出している部分にはガーゼかさらしを巻いた後(皮膚を伝って海水が流れる時、皮膚組織も崩れるため)毛布で包み水面上にケージごと引き揚げてボディバッグに収め、艇内に収容した。
それがすめば、急造の手作り祭壇に安置し掃海艇先任伍長が日頃から用意している線香を手向けた。ご遺体に対する哀悼の気持ちを伝え得るとともに死臭を消す効果がある。
この作業は若年隊員に手順などを指導する意味も持たせ、4人1組のEODを3チーム編成して交代で行った。
遺体を傷つけないための徹底した配慮
機体の中で発見したご遺体のお1人はヘッドセットを装着したままであり、このヘッドセットと機体が電線ケーブルで接続されているため、揚収するためにはこれを切断しなければならない。
しかし、このケーブルをマニピュレーターで切断することができず、これ以上の作業はご遺体を傷つける恐れが生じたため、機体を水深30メートル付近まで引き揚げ、EODを潜水させてご遺体を収容した。
最終的には機体を台船に引き揚げなくてはならず、そのために水中でベルトやネットなどにより機体を包んで吊り下げて収容することとなる。
しかし、航空機の素材はアルミ合金のため海水中に1週間も浸した状態で放置されていると材料強度が劣化し、機体が水面を切る際に機体の空中重量が揚収索にかかって機体が壊れてしまう恐れがある。
機体の原形を保持して台船上に回収することは極めて困難であり、従ってご遺体を機体内に残したまま機体を回収することを避けた次第である。
航空救難やそれに伴う遺体捜索は辛い仕事であるが、これが任務であり、これが船乗りとしての務めだという意識を自分にも部下にも持たせながら、できるだけ綺麗な状態でご遺体をご遺族にお返ししようという気持ちで作業にあたることが必要であり、そのことがメンタルダウンを生じさせないことにもつながるものと確信している。
このたびの東日本大震災では想像を絶する被害と苛酷な環境の中で掃海部隊をはじめとする艦艇部隊が災害派遣の任務に就いたと思うが、彼らも綿々と継承されているノウハウと仁心をもって任務に就いたものと確信している。