「日本一の七重塔」発願。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【決断の日本史】1392年11月3日




天下人を誇示した義満

 権力者が記念碑的な建物を造り、自らの力を誇示するのは古今東西を問わないことである。室町幕府3代将軍、足利義満(1358~1408年)の金閣はあまりに有名だが、もう一つ彼が建てた「日本一の建築」を取り上げてみたい。

 京都市上京区、相国寺(しょうこくじ)にあった七重塔である。相国寺は義満自身が創建した禅寺で、南北朝の合一(ごういつ)を成し遂げた翌月の明徳3(1392)年11月3日、日本で最大、最高となる七重塔の建設を発願したのだった。

 日本の塔で最も高かったのは奈良時代の東大寺七重塔で、100メートルあったとされる。これに次ぐのが、平安末の白河法皇の法勝寺(ほっしょうじ)九重塔だった。

 「法勝寺塔は14世紀半ばまで現存しており、義満がこれを意識していたことは間違いありません。43年間も院政を敷いた白河法皇の権力を超える象徴としての大塔を、父・足利義詮(よしあきら)の三十三回忌に合わせて建てたのです」

 近著『室町幕府論』で、相国寺の塔の政治的意味に着目した早島大祐(だいすけ)・京都女子大学准教授は言う。

 7年後の応永6(1399)年9月15日、七重塔は完成し落慶法要を迎えた。高さは何と110メートル。公武の要人と千人の僧が参列する豪勢な式となった。しかし、塔はわずか4年ののち、落雷によって炎上してしまう。日本一の高さゆえの悲劇であった。

義満は翌応永11(1404)年から、金閣のある北山第(てい)で七重塔の再建をスタートさせた。だが同15年、完成を見ることなく急死してしまう。

 跡を継いだ義持は父の政策の多くを否定したが、七重塔は相国寺に戻して再建した。この塔は不思議に「応仁の乱」にも焼亡を免れた。文明2(1470)年10月3日の火災で焼け落ちるまで、荒廃した京の町を見下ろし続けたのである。

                                     (渡部裕明)