【決断の日本史】764年9月18日
藤原氏嫡流、栄華と転落と
近江(滋賀県)は畿内と東国の結節点で、歴史を彩った3人の最高権力者が、この地で最期を迎えている。7世紀の大友皇子、8世紀の藤原仲麻呂、12世紀の源義仲である。
藤原仲麻呂(706~764年)は不比等の長男・武智麻呂(むちまろ)の次男である。生まれつき聡明(そうめい)で順調に昇進したが、31歳のとき父が天然痘で急死してしまった。政権は皇族出身の橘諸兄(もろえ)に移り、しばし雌伏を余儀なくされる。
仲麻呂に肩入れしたのは、5歳年長の叔母・光明皇后だった。聖武天皇も彼を重用するようになる。天平17(745)年には、祖父も父も歴任した近江守(かみ)に就任した。彼が藤原氏の嫡流となったことを示す人事だった。
天平勝宝(しょうほう)元(749)年7月、聖武天皇が娘の孝謙天皇に譲位したのを機に、光明皇后のための役所を「紫微中台(しびちゅうだい)」という組織に衣替えし、長官に就任した。律令にない役職で、自由に腕をふるえるようになったのである。
8年後の天平勝宝9(757)年1月、諸兄は傷心のうちに死去。同年7月には諸兄の長男・奈良麻呂が謀反を企てたが事前に潰(つい)えた。翌年、孝謙天皇に代わって淳仁(じゅんにん)天皇が即位すると、仲麻呂の政権は盤石となった。
しかしその2年後、頼みの光明皇太后が亡くなった。仲麻呂の絶対的地位も揺らぎ始める。孝謙上皇が政治に口出しし、僧侶の道鏡(どうきょう)を寵愛(ちょうあい)したからである。仲麻呂は焦った。
天平宝字(ほうじ)8(764)年9月11日、上皇が動いた。皇位のシンボルである御璽(ぎょじ)(天皇印)と駅鈴(えきれい)を奪い、仲麻呂の官位を剥奪したのである。
謀反人とされた仲麻呂は、態勢を立て直すべく近江へ走った。しかし朝廷軍の追撃を受け18日、勝野鬼江(かつののおにえ)(高島市の乙女ケ池)で妻子とともに斬られた。希代の権力者の、何ともあっけない最期であった。
(渡部裕明)