「独走」招いた世界的視野。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【満州事変80年と石原莞爾】(下)挫折と転換





日本の国民が柳条湖事件を知ったのは事件翌日の9月19日午前6時半過ぎ、ラジオの臨時ニュースによってだった。ちなみに日本でラジオ放送が始まったのはその6年前の大正14(1925)年のことで、臨時ニュースが流されたのはこれが初めてだったという。

 政府は午前10時から臨時閣議を開いた。だが、若槻礼次郎の民政党内閣は最初から中国大陸への積極策には否定的だった。とりわけ外相、幣原喜重郎は根っから、国際協調路線をとっていた。

 幣原は、事件が関東軍による「謀略」である可能性を強く示唆し、閣議は事態不拡大の方針で一致した。石原莞爾作戦主任参謀ら関東軍にとって頼みの綱だった陸相、南次郎も沈黙を守るしかなかった。

 その知らせに石原は愕然(がくぜん)としたという。ここまできて足を止めれば3年前の張作霖爆殺事件同様、日本は国際的非難を浴びるだけで、結局はこれまで得た権益を失うことになる。もう後には引けないとの思いが強かった。

 しかも石原にとって、満州での日本の権益を守ることだけが目的ではなかった。若いときから温めていた「世界最終戦争」への布石という意味があった。

 世界の歴史を見れば、いずれは日本を中心としたアジアと米国が戦わざるを得ない。その「最終戦争」を経て真の平和が訪れる。それに備えて、日本と中国の権益が対立する満蒙(満州とモンゴル)問題を早く解決しなければならない。そのための軍事行動だった。起案した満州問題に関する文書でこう書く。

「支那問題、満蒙問題は対支問題にあらず、対米問題なり。この敵を撃破する覚悟なくしてこの問題を解決せんとするは、木によりて魚を求むるの類なり」

 石原にしてみれば、政府の不拡大方針にはそんな世界史的展望が欠けていたのだろう。

 石原と盟友、板垣征四郎高級参謀は本庄繁軍司令官を説き、政府や陸軍中央の意向に逆らっても戦線を広げ、ほぼ満州全域を支配する。関東軍が守るべき南満州鉄道(満鉄)とその関連地をはるかに超えており、もはや完全な「独走」だった。

 関東軍ばかりでなく、林銑十郎司令官率いる朝鮮軍も、政府の決定を無視して国境を越え、満州に攻め入った。ここにいたって政府も追認せざるをえなかった。

 だがその一方、中国の国民政府が国際連盟に提訴したことで、事変は「国際問題化」する。その時点で石原らが目指していた「満州占有」はほとんど不可能となった。一転して満州の「独立」を目指す。

 満州事変のひとつの帰結としての「満州国」は事変の翌昭和7年3月、建国された。現実はともかく日・朝・漢・満・蒙の「五族協和」をうたっていた。当初「漢民族の統治能力」を疑ったがために満州占有論を唱えていた石原も建国にあたっては、この考えを翻していたという。

 石原はこの後、いったん満州を離れ、参謀本部作戦課長や作戦部長をつとめ、12年から関東軍参謀副長として再び満州に渡る。しかし参謀長で陸軍士官学校の4期先輩の東条英機としばしば衝突、自ら予備役を願いでて、1年足らずで満州を去っている。

もはや自らの理想を実現するための国ではない、との思いがあったのかもしれない。

 石原は酒田法廷が開かれた山形県酒田市の南、鶴岡市の出身である。16年9月から同じ山形の吹浦に転居するまで鶴岡に住んでいた。だが故郷の人々が石原に向けるまなざしは多少、複雑である。

 鶴岡城趾(じょうし)にある大宝館には、鶴岡が生んだ偉人の業績などが展示してある。最も大きなスペースをさいているのは明治の論客でジャーナリストの高山樗牛のコーナーで、石原のはやや窮屈である。

 しかもその事績を紹介する説明書には「軍人ではあるが、全人類の平和を希求した人である」とし、満州国建国は書かれていても、満州事変には触れていない。

 確かに石原は満州事変後は日中戦争拡大に反対したし、戦後は最終戦争論を捨て、戦争放棄の考えにまで至っている。だから「平和を希求した人」には間違いはないかもしれない。だがそこには、戦前の日本軍の行動をすべて「悪」とみなす戦後思潮が色濃く影を落としているような気がする。

 満州事変抜きで石原莞爾を語ることはできない。逆に石原の思想や器量を抜きにして満州事変を理解しようとすれば、石原の言葉通り「木によりて魚を求める」ことになる。

                                     (皿木喜久)