昭和天皇とハレー彗星。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【風の間に間に】論説委員・皿木喜久




昭和天皇が晩年、明治43年のハレー彗星(すいせい)のことを話されていたニュースが今も頭に残っている。

 調べてみると、昭和61年1月1日付産経新聞の記事だった。前年暮れからこの年の3月にかけハレー彗星が76年ぶりに地球に近づくというので、話題になっていたころだ。

 昭和天皇は12月13日の夜、伊豆の須崎の御用邸屋上で、職員が備え付けた望遠鏡をのぞかれた。ハレー彗星はまだ尾は引いていなかったが、雲のようにぼうっと光る姿があちこちで観測されていた。

 侍従によれば、昭和天皇も「わかった」「あった」と声をあげられたという。この後、侍従を通じ感想を述べておられる。

 「前回のとき、両親と一緒にハレー彗星を見たことを鮮明に覚えています。一生のうちに2度も見られるという幸運に恵まれたのも、健康でいられたおかげだと思います」

 前回というのが、明治43(1910)年の5月、地球に接近したときのことである。当時9歳だった昭和天皇は父の大正天皇(当時皇太子)と母、貞明皇后と一緒に、青山御所の車寄せでご覧になった記録があるという。

 ホウキのような尾を引くハレー彗星は76年周期で地球に近づく。だから昭和61年と2回見ることができたのは、昭和天皇とほぼ同世代の人たちだけで、そのことを「幸運」と述べられたのだった。

 だがこの話を思い出した理由は別にあった。その明治のハレー彗星が世界中に大パニックを招いていたからである。

 彗星が最も近づくとき、有毒ガスを含んだ尾に地球が包まれ、生物は死滅するといった「風評」が流れたのである。欧米では地下室に避難したり、神に祈りをささげたりする人が続出した。日本でも、そのときにガスを吸わないため、桶(おけ)の水に顔を入れ、息をとめる訓練を行う風景が見られたという。

 むろん何の科学的根拠もないことだった。だが当時の新聞まで悪のりして書き立てたことも、パニックを増幅させた。

 しかし昭和天皇が観測された記録やご感想からは、そんなパニックは感じられない。最も接近したときとは時期的に多少ズレがあるのかもしれない。だが、当時でも大多数の人は「風評」にも惑わされず、静かにハレー彗星を楽しんでいたことがうかがわれる。どこかホッとさせられるのである。

 大震災による福島の原発事故では周辺の人々が避難を余儀なくされたり、農作物から放射性物質が検出されたりと、多くの被害が出た。

 しかしその一方で、根も葉もない風評に一部の人が踊らされているのを見ると、ついつい明治43年のパニックを想起してしまう。

 東京から「脱出」したり、水や米が買い占められたりといった騒ぎである。福島から千葉に避難してきた小学生が「放射線がうつる」とからかわれることもあった。

 こんな時に必要なのは、政治家をはじめ社会の指導的立場にある人たちが冷静であることだ。メディアなどを通じそんな姿を見せることが、パニックを防ぐのである。

 経済産業相という立場にあった鉢呂吉雄氏が原発事故周辺を視察したあと、記者に「放射能をうつしてやる」など、パニックをあおるかのような発言をしたことなど論外、政治家失格である。

                                     (論説委員)