【本郷和人の日本史ナナメ読み】
三好長慶(ながよし)は織田信長に先んじること25年、畿内を掌握していました。では何で信長は天下に向かって歩を進めたのに、長慶は天下取りに向かわなかったのでしょう? 長慶と信長の違いは何なのでしょう。それがとても気になりました。
まずは2人の意識が違う。長慶はおそらく、室町幕府の実権を掌握しようとは思っていたでしょう。けれども、その室町幕府はそもそも、全国を均一に統治しようという意図をもっていない。東は駿河、西は博多。さらに本音を明かせば畿内近国。その辺りまで指令が届けばそれで十分。そう考えていたのです。これに対し、信長は岐阜に居城を移したときから「天下布武」を表明していました。この視野の差は大きい。
それから、2人の「支配」の性質には、違いがあるのではないか。惣村(そうそん)(中世に成立した自治村落)の一揆契約状を整理していて、そう思いつきました。
というのは、戦国時代の村落の住人たちは、「地侍(じざむらい)-本百姓(ほんびゃくしょう)-脇百姓-下人(げにん)」という構成をとっている。地侍は村落の指導層を形成します。本百姓は村落の正式な構成員で、村の精神的な紐帯(ちゅうたい)である神社の社殿に、座席(宮座という)を有することを許される。脇百姓はいわば半人前の小規模な農民ではあるが、村落の構成員として認められる。神社での座席は、本百姓より一段下手(しもて)に用意される。下人は地侍や本百姓に人格的に従属する零細農で、構成員には数えられず、社殿に上がることは許されない。
このうち戦国時代に特徴的なのは、地侍の振る舞いです。彼らはあるときは農民ですけれども、あるときはたとえば足軽として、武士として活動します。一揆の先頭に立って武家勢力と戦うかと思えば、その地域一帯の領主-これを国人領主といいます-の家来となり、村落を支配する下級の役人になる。
彼らこそは学術用語で「小領主」と呼ばれる存在であり、のちに豊臣秀吉が兵農分離の政策を実施したときに、「兵」になって城下町に移住するか、「農」として村落に残るか(この場合は庄屋とか名主、村落のリーダーになる)、選択を迫られた階層なのです。
三好長慶が掌握したのは、各国の国人領主どまりだった。村落のことは国人領主任せにしていた。だが、明智光秀や羽柴秀吉を通じての信長の支配は、国人領主にとどまらず、地侍=小領主にまで及んだのではないか。それが私の理解です。長慶の統治は、村落の自立を前提としていますから、いくつかの村落を基盤とする国人領主を思うままには従わせられない。国人領主は地域に根ざした経営を展開しており、長慶の命令にしばしば背いたのです。
ところが織田家の場合は、地侍を抱え込み、村落からの切り離しを行っている。それゆえに国人領主も、地域から分離して、城下町への集住を命じることができる。江戸時代に見られる、武士のサラリーマン化が始まるのです。こうなると国人領主は、簡単には織田家から離れられない。自分の運が開かれるには織田家の躍進が必要で、両者は運命共同体だったのです。それゆえに織田家の足腰は強力で、天下を狙えたのではないでしょうか。
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畿内の覇者・三好長慶
三好長慶は三好元長の嫡男。三好家は甲斐源氏の小笠原氏の一族といわれ、細川家に仕えて阿波の守護代を務める家であった。若年から知勇に優れ、父の元長を謀殺した細川晴元に忠実に仕えたが、やがて袂(たもと)を分かって細川家、さらには室町将軍家の実権を掌握した。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。