【正論】学習院大学教授・井上寿一
新内閣が発足したこの9月は、満州事変の勃発からちょうど80年を数える。新内閣と満州事変を重ね合わせると、どのような示唆を得られるのだろうか。以下では、満州事変をめぐる1930年代の歴史の教訓について考える。
≪二大政党連携で軍にブレーキ≫
1931(昭和6)年9月18日に起きた満州事変は、対ソ戦の戦略的拠点・資源供給地の確保にとどまらず、国内の「改造」を目的とする軍事行動だった。満州事変は(未遂に終わったものの)、クーデター計画(十月事件)と相互に連関していたからである。
事は重大だった。政党政治に対する挑戦に、政友会と民政党の二大政党は立場の違いを超えて立ち向かう。
両党の提携は協力内閣構想として具体化する。当時の首相は民政党内閣の若槻礼次郎である。若槻は協力内閣構想の推進者の進言を受け入れる。「この際英国流に犬養(毅)を首班にして、協力内閣でこの難関を押し切ったらどうか」。ここに言う「英国流」とは、イギリスのマクドナルド挙国一致内閣を指す。若槻は野党の政友会総裁の犬養に首相のポストを譲ってでも、イギリスのような協力内閣によって、満州事変の拡大の抑制に乗り出そうとした。
10月末から11月初めにかけ協力内閣構想が具体化すると、それだけで現地軍の勢いに急ブレーキがかかるようになる。陸軍中央による統制が回復したからである。
ところが皮肉にも、現地軍に対する統制が回復しかかると、協力内閣構想は空中分解していく。満州事変対策での協調よりも昭和恐慌の克服政策をめぐる対立の方が激しくなったからである。
協力内閣構想の挫折にともなう若槻内閣の崩壊後、犬養の政友会内閣が成立する。政友会は32年2月の総選挙を恐慌克服政策一本槍(やり)で戦って、圧勝を収める。しかしこの内閣の外交は、満州事変の拡大から満州国の成立まで、なす術(すべ)がないに等しかった。
犬養内閣が五・一五事件で倒れたあと、非政党内閣が2代つづく(斎藤実、岡田啓介両内閣)。犬養内閣の蔵相高橋是清の留任による積極政策の成功によって、経済危機は沈静化に向かう。対外危機も33年5月末の日中停戦協定の成立を境に沈静化に向かう。二つの危機の沈静化は政党内閣復活の可能性をもたらす。
≪大連立より政策協議優先せよ≫
政党内閣復活の前段階として注目に値するのが岡田内閣の内閣審議会構想である。内閣審議会とは何か。党利党略を超えて政策を議論するために、政党や財界、学識経験者に閣僚を加えて構成される協議機関のことだった。
先回りして述べると、この構想は政友会の参加拒否によって実現しなかった。衆議院において民政党の約2倍の議席を持つ政友会は、民政党との提携よりも単独内閣をめざしたからである。
しかし協力すべき時に協力しなかったことの代償は大きかった。政党内閣の復活の前に日中全面戦争が起きる(37年7月7日)。その後、二大政党は提携するどころか解党し、大政翼賛会へとなだれ込んだ。
以上の歴史からどのような教訓を学ぶことができるのか。3点にまとめる。
第一は大連立よりも政策協議の優先である。若槻は協力内閣のためならば、首相のポストを野党の総裁に譲る覚悟だった。大連立論者の野田佳彦新首相に同じ覚悟があるのか。おそらくないだろう。これでは自民党とであれ公明党とであれ、どのような連立構想であっても、ねじれ国会を乗り切るための数合わせにすぎなくなる。
それよりも岡田内閣の内閣審議会構想に倣って、与野党と官民の専門家による政策協議をとおして基本国策の共有を図るための政府機関を設置するべきだろう。
≪強力な外交と危機意識継続を≫
第二は強力な外交のための国内基盤の整備である。2009年の政権交代の前後から、国際社会における日本の存在感の低下が著しくなっている。国際社会の安定化のために、日本外交が果たすべき役割は大きい。
玄葉光一郎新外相は就任の際、日米同盟の深化を強調した。問題はどのように深化させるかだ。深化を通して日本の国際的な地位の向上をめざすことが肝要であり、玄葉外交の手腕が試される。
かつての犬養内閣の轍(てつ)を踏んではならないだろう。国内経済政策は成功した。しかし外交は駄目だった。そうならないように強力な外交体制の確立が必要である。
第三は危機意識の継続である。喉(のど)元過ぎれば熱さ忘れる。「非常時小康」の「小康」に気を緩めて、「非常時」を忘れかけた1930年代の日本の政党政治は党利党略が再発した。
同様の事態に陥らないようにしなくてはならない。原発問題を中心に今も危機的な状況がつづいている。大震災後の平常への復帰は容易なことではない。危機意識を持ちながら、復興をとおして新しい国づくりをする。そのための国民的な決意を再確認したい。
(いのうえ としかず)