【笠原健の信州読解】
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110910/stt11091007010002-n1.htm
旧制高校の再評価を。
東日本大震災の発生から半年。被災地では復興に向けた取り組みが進むが、傷は容易に癒えない。原発事故による放射能汚染が今後、福島県だけでなくわが国全体にどのような影響を与えるのか確たる予測もついていない。とりわけ大震災は国を率いるはずの政治家の無定見ぶりと指導力の欠如、有事にまともに対応できないわが国の国家のありようをあらわにした。国家や伝統的価値観を軽んじ、何よりも私益を優先する戦後民主主義によっておとしめられた日本を再生する道のりは平坦ではない。30年、いや40年、もしかしたら半世紀はかかるかもしれない。しかし、それをやらなければ、わが祖国に明日はない。ここでは国家の礎となる人材を育てる教育の再生について私見を述べたい。
支局が長野市にあることから普段は長野県北部を中心に取材をしているが、県央部の中核都市である松本市も時折、訪れる。上杉氏の城下町、山形県米沢市で育ったこともあり、国宝・松本城を擁する松本市は気に入っている街の一つだ。寓居がある長野市も魅力的だが、善光寺の門前町である長野市よりもやはり松本市の方が性に合っている。
松本市を訪れた際に松本城へ立ち寄るのは勿論だが、「あがたの森公園」もよく散策をする場所だ。特に公園内に保存されている旧制松本高等学校の校舎は何度、見学しても飽きることがない。パステルグリーンの校舎の外観は大正8(1919)年に開校した当時の雰囲気を今に伝えている。
旧制高等学校は明治19(1886)年の中学校令により設けられた学校であり、同じ高等学校という名称を使っていても戦後の学制改革でできた新制高校とは本質的に異なっている。
近代化を急ぐ明治政府は人材育成のために全国各地に帝国大学を設けたが、欧米諸国の制度や文化を吸収するための帝国大学は語学をはじめとする高等教育が中心となった。このため、その予科的な教育を施す必要が高まり、高等学校が設置された。
旧帝国大学の定員は旧制高等学校の卒業生とほぼ同じだったので卒業生は学科をえり好みしなければ、ほぼ無条件で進学できる特権を有していた。つまり、旧制高等学校は帝国大学の予科的な存在で、学生は受験勉強に時間とエネルギーを注ぐ必要がなく、青春時代を自らの精神と肉体の鍛錬のために費やすことができた。
弊衣破帽に身を包んで街を闊歩する。寮生活を謳歌しながら、学友との友情を深め合い、「デカンショ」と略されたデカルト、カント、ショーペンハウエルの哲学書を読んで過ごす。旧制高校学校の学生のスタイルは広く知られており、改めてここでその学生生活や教育内容を詳しく紹介することは避けようと思う。旧制高等学校の教育の特長は古文、漢文、歴史、外国語、文学、倫理学、論理学など教養(リベラルアーツ)を幅広く学ぶことにあった。
旧制高等学校を裏打ちしていたのは一言で言うとエリート教育の是認である。「末か博士か大臣か」。もはや死語となった感のあるこの言葉は、明治期のわが国の人材育成のありようを示している。学問に秀でた人物が旧制高校、そして旧制帝国大学に進み、栄達を果たして郷里に錦を飾る。勿論、その人物個人の才能と努力の賜でもあるが、郷里を挙げてその秀才を見いだして応援し東京に送り出した、という点を見過ごすべきではない。
通信簿の5段階評価どころか1組、2組、3組…、A組、B組、C組…と学校のクラス分けをすることさえ優劣意識を子供たちに植え付けることになる、といったとんでもない悪平等がまかり通った戦後教育の世界では考えられないだろうが、わが国が左翼・リベラル思想にドップリと染まる前の時代は、エリート教育はごく当たり前のことだった。
母方の実家は仙台市にあった。仙台市には旧制第二高等学校があり、東北帝国大学があった。既に鬼籍に入ったが、戦前生まれの祖父や祖母はかつての二高生に絶大な信頼を寄せていて、祖母などは自宅への帰りが遅くなったときには道すがら出会った二高生に理由を話して夜道のボディーガード役を頼んだことが何度かあった、と話していたことがあった。「二高生なら、絶対に安心」。祖母はこう繰り返していた。
現代では、若い女性が見ず知らずの男性に夜道のボディーガード役を頼むなどということは絶対にない、と言っていいだろう。頼むのはいいが、その相手が「送り狼」に豹変する恐れの方をむしろ心配しなくてはいけないのではないか。
「6・3・3で12年」。確か学習机のCMのうたい文句だと思ったが、これは戦後に導入された学制改革を端的に表す言葉だろう。アメリカの学校教育を手本とした小学校6年、中学校3年、高等学校3年の「6・3・3」の新学制は戦後、全国で瞬く間に導入された。
日本という国の面白いところは、制度の基本的な枠組みを残しながらも換骨奪胎というべきなのかそれとも融通無碍というべきなのかどうかは分からないが、いつの間にか制度を変容させてしまうことにある。今では当たり前になってしまった中高一貫教育がそうだろうし、一時期、脚光を浴びた大学入学資格検定試験などもそうだろう。昨今では小中一貫や小中高一貫の学校の創設も論議されている。だが、制度の根幹を改革しないままの修正も限界にきた。
戦後に学制が改革されて60年以上がたつ。新学制の中ですっぽりと抜け落ちてしまったのは、選ばれた者のみが扉を開けることができるというエリート主義に裏打ちされた誇りと指導者になるにあたってはごく当たり前であった教養(リベラルアーツ)の習熟である。旧制高等学校のことを考えると、本来必要なのは中高一貫や小中一貫よりも大学予科的な教育システムの充実ではないか。
無論、現代に旧制高等学校をそっくりそのまま復活などできるわけもないし、戦前の学制が万能なわけでもない。旧制高等学校、そして旧制帝国大学へと進んだエリートたちは結局、祖国が敗戦の道を歩むのを止めることはできなかった。ただ、教育の再生を論議するとき、旧制高等学校が果たした役割やそれが持っていた美風などを再評価するべきではないだろうか。
(長野支局 笠原健)