【正論】社会学者・加藤秀俊
原発事故の当日だったか翌日だったか、記者会見で政府高官が「モニタリング・ポスト」をうんぬんし、それと前後してべつな高官が「ベント」を指示したとか、しなかったとか、しきりに「ベント」ということばを使用なさっているのをききながら、ああ、これじゃダメだ、とわたしはひそかにおもった。
原発事故でカタカナ語の洪水
「モニタリング・ポスト」というのは各地に配置された「観測装置」ということである。「ベント」のほうは文脈からアタリをつけて解釈してみたら、どうやら「ベンチレーション」すなわち「排気」あるいは「換気」という英語の略であるらしいことがわかった。英語の語彙数のすくない人間にはなんのことやらわからない。英語を知っていてもカタカナ表記の和製略語になるとよほどの想像力をもってしなければ理解できない。難儀なことである。ここは日本国。説明なさる高官もわれら人民も日本人。日本語でいってちょうだい、といいたくなる。
この種のわからない英語、というよりもカタカナことばがここ数カ月、まったく必要もないのに続々ととびだしてきた。「トレンチ」というのは溝のこと。こんどのばあいは「暗渠(あんきょ)」ということ。それをアナウンサーはわざわざ「トレンチと呼ばれるトンネル」という。そんならはじめっから「暗渠」といえばいいではないか。バカもいいかげんになさい。
某高官は「シビア・アクシデント」を連発なさった。「深刻な事故」といえばだれにでもわかるのに、なぜカタカナ語でおっしゃるのか、まことに不審である。「ホール・ボディー・カウンター」というのもあった。カタカナ語だとなにやら特別なもののように錯覚するが、なんのことはない「全身測定器」ということである。
きわめつきは「ストレス・テスト」つまり「耐久試験」である。それならそれで、さいしょから日本語でそういえばいいのに、なぜ英語でおっしゃるのか、わたしにはこれら高官のカタカナ語愛好癖がどうしても理解できない。
逍遙の「当世書生気質」並み
夏目漱石がむかし「むやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男がごろごろ」していた時代があった、と回顧したのは大正3年。ちょうどいまから1世紀まえのはなしである。おそらく漱石の念頭にあったのは、坪内逍遙が『当世書生気質』に戯画化した明治の学生たちのことだったのだろう。つまり「ウエブストルの大辞典」を片手に、「一巻のブック」を読み、「このフホウミュラ(定式)をアップライ(応用)していいのか。…こないなイージイ(易しい)プロブレム(問題)ができんか」式のカタカナだらけの会話のこと。英語ができるのが自慢でしようがない、そういう文明開化のひとコマだ。いま読んでも、おかしくってしかたない。
それとおなじ滑稽なことがいまの日本の政府、それも最高指導者諸氏のあいだで発生しているようなのである。要すれば、いまの政治家のカタカナ好きは「当世政治家気質」なのであろうか。「排気」といわずに「ベント」というのがハイカラであり、「溶解」という日本語のかわりに「メルトダウン」をつかうほうが高級だ、という思想がどこかにあるのかもしれぬ。だとしたら噴飯ものだ。
原子力ムラの隠語を借用?
だが、それだけではあるまい。これらのエラいさんは、記者会見する担当省庁や電力会社の課長さんたちとおなじく、原発関係者の仲間うちだけで通用する業界用語を借用なさっているだけなのではあるまいか。察するに、たぶんあの業界では「暗渠」という「一般用語」をつかわず「トレンチ」という習慣があり、「観測」という日本語をわざわざ回避して「モニタリング」という約束になっているらしいのである。
やくざ社会では、たとえば駅を「ハコバ」、指を「エンコ」、寿司を「ヤスケ」、しごとを「ゴト」、などという。ご同業仲間だけに通じる隠語である。それとおなじく原子力業界にも隠語があるにちがいない。業界内部のやりとりだけなら、それもよかろうが、その隠語をそのまま政治家や官僚が借用してわれら民衆に解説なさるのはまことに迷惑である。かれらは「業界」を批判しているようで、いつのまにやら、その仲間にひきこまれてしまったのである。ベクレル、シーベルトのたぐいは計測単位だからしかたあるまいが、それ以外のことはどうか日本語でおっしゃっていただきたい。
学者先生のなかには、どうも日本語では表現できなくて、などとおっしゃるかたがおられるが、あれは知ったかぶりの大ウソである。たいていのことは日本語で表現できるのである。福澤諭吉、西周など明治の先人たちは「哲学」「経済」「主義」「社会」その他もろもろの造語をもふくめて外国語を日本語にするための努力をかさねた。なにが「ストレス・テスト」なものか。わたしの心は憤怒の「ストレス」をうけたのであった。
(かとう ひでとし)