【本郷和人の日本史ナナメ読み】(15)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110821/art11082107520005-n1.htm
ここに一通の文書があります。読み下すと以下の如くになります。
御状披見せしめ候。仍(すなわ)ち、高槻の田舎衆のこと承り候。さようの由、こらへもなき衆は、此の方にはいやにて候。また、敵には色々調略の由、ことに立たざる衆、敵へ出で候分にては、指したる事あるべからず候。近国の敵味方よく存知せしめ候間、気遣いもなきことにて候。恐々謹言。
十一月九日
久秀(花押)
寺上
松二兵 これを進め候
ふんいきを損なわぬように訳すると、次のようになります。
お手紙拝見。高槻の田舎者のこと、確かに承った。そのようにこらえ性のないやつら、こちらとしては、いやだ。敵が調略しているそうだが、ものの役に立たぬやつら、敵になびいても、たいしたことはない。近国の敵・味方の実力はよく知っているので、気遣いは無用である。
高槻の田舎者、とありますが、少し前の畿内の覇者、三好長慶(ながよし)が居城として用いた芥川城は、現在の大阪府高槻市にありました。田舎なんてとんでもない。生産力の高い摂津国。その中心である高槻は、京都にも近く、とても栄えた地域だったのです。それを田舎呼ばわりするのは、文書の書き手の「高槻にくし」のあらわれに違いありません。
書き手は高槻の勢力を味方に加えようとした。ところが、うまくいかなかった。報告を聞いて書き手はたぶん激怒したのでしょう。あんなやつら、こちらから願い下げだ! ふつう文章にすればそれなりに抑制がきく。ところがこの文書は、悪意に満ちている。それにしても「いやにて候」とは…。こんなに率直な書状を、私は他に知りません。
書き手の名は、梟雄(きょうゆう)として名高い松永久秀。生まれは永正7(1510)年頃。出生地は不明。30歳で三好長慶に仕えたといいますが、それまで何をしていたのか分からない。三好家で急速に頭角を現し、家老職に就任。畿内における長慶の覇権を支えました。
やがて長慶が病死すると独立し、三好氏の残党と抗争をくり広げます。織田信長が上洛してくると、いち早く臣従して大和一国を与えられました。
信長は久秀を高く評価し、こいつは3つもすごいことをしてのけた、とみんなの前で言いました。1つ。主人(長慶の子の義興)を殺した。2つ、将軍(13代、足利義輝)を殺した。3つ。東大寺の大仏を焼いた。おれの及ぶところではない。
でも、久秀の方は信長からの自立をひそかに画策し、味方を募っていました。この書状はその頃、天正元(1573)年に書かれたらしい(小和田哲男『戦国武将の手紙を読む』中公新書)。
そうであるなら、なじられた「高槻の田舎者」とは、あの高山右近と父の友照ということになります。さてさて、反逆はうまくいったのでしょうか。
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幕末から明治初期にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた松永久秀の最期
■松永久秀の最期
松永久秀の肖像画は残っていないので、明治時代に描かれた芳年(よしとし)の絵を。一般には信長が所望した茶釜(ちゃがま)「平蜘蛛(ひらぐも)」に爆薬を仕掛けて爆死したというが、この絵では柱にたたきつけて、こなごなに破壊している。これもまた、梟雄久秀らしい最期である。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。