【平成志事術】
マーケティングコンサルタント・西川りゅうじん。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110819/art11081903020000-n1.htm
■シーボルトと日独交流
今年(2011年)は、「日独交流150周年」に当たる。日本とドイツの国交は、幕末の文久元(1861)年に、江戸幕府とプロイセンが日独修好通商条約を結んだことに始まる。
歴史上、日本で活躍した最も有名なドイツ人は、長崎出島のオランダ商館医だったシーボルトに違いない。
彼は現在のバイエルン州のビュルツブルクに生を享(う)ける。同市は、世界遺産に登録されている欧州屈指の宮殿と庭園で知られ、有名なロマンチック街道の起点でもある。
一家は貴族階級に属するドイツ医学界の名門で、大学では医学、植物学などを修め、同郷会の議長も務めた。誇り高い男で、当時、男同士の決闘は許されていたものの、生涯33回もの決闘を行い、顔に傷を負っていた。そんな男だから、坂本龍馬はじめ薩長土肥の志士たちと幕府がにらみ合う幕末の日本に来ても動じなかったのだろう。
卒業後、母の住む田舎町で診療所を開業する。しかし、一躍、東洋に関する研究を志し、オランダ国王の侍医の紹介で同国の軍医となり、日独の国交が始まる38年前の1823年、彼が27歳のとき、長崎に赴任してきた。
次第に医師としての名声が高まり、出島の外に出ることを特別に許されるようになる。長崎郊外に鳴滝塾を開設し、全国から俊秀を集めて、西洋医学を伝授した。
また、商家の出のお瀧との間に娘おいね(楠本伊篤)を授かる。26年には、江戸に上り、将軍徳川家斉に謁見。しかし、28年に一時帰国しようとした際、収集品の中に、ご禁制の日本地図があったため、国外追放処分となる。いわゆるシーボルト事件である。
58年に処分が解除され、翌年、63歳で再来日がかなう。2歳で離れ離れとなった娘は、弟子たちの指導の下、日本初の女性産科医になっていた。30年の年月を経た再会の感慨はいかばかりだっただろう。その後、日本は明治維新を迎え、ドイツにならって近代化を成し遂げていった。
両国は第二次大戦の敗戦からともに奇跡の経済復興を遂げた。しかし、日本経済がバブル崩壊後の「失われた20年」を経て、なお浮上しないのを尻目に、ドイツはリーマン・ショックからいち早く立ち直った。特に自動車や化学など基幹産業が強く、ドイツ流「ものづくり」の真価が発揮されている。また環境先進国でもある。幕末維新と同じく今こそドイツに学ばねばならない。
バイエルン州のミュンヘンには、シーボルトが14歳だった1810年から毎年開催されている「オクトーバーフェスト」というビール祭りがある。今や2週間強の期間中に世界中から650万人が訪れ、600万杯ものビールが飲まれる世界最大の食の祭典だ。
150周年を記念して、今秋、わが国で最初にビールが醸造された日本のビール発祥の地のひとつである長崎でも「オクトーバーフェスト」が開催される。
シーボルトに始まる日独交流の歴史に思いをはせ、今宵(こよい)もビールの杯を挙げよう。「アインス・ツヴァイ・ドライ! ズッファ! プロースト!」(いち・に・さん! 飲み干せ! 乾杯!)
(にしかわ りゅうじん)