薄れた公益と責任再び取り戻せ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【正論】震災下の8・15 

国際日本文化研究センター所長・猪木武徳
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110811/dst11081103380003-n1.htm



薄れた公益と責任再び取り戻せ


 3月11日のあの巨大地震がもたらした惨禍を、関東大震災や1945年に焼け野原と化した日本の惨状と比較する文章に出合うことがある。大失敗や過酷な災難ですべてが終わりになるわけではないから、努力を重ねれば戦後日本のように再建できるのだ、だから「ガンバレ、日本」という。しかし大地震、大津波、原発事故によって突如、平穏な日常を奪われた人々に「ガンバレ」と叫ぶだけでは本当の励ましにはならない。

 ≪戦後の政治姿勢を反省せよ≫

 あの悲劇に言葉を失うだけではなく、これまでのわれわれの政治姿勢を徹底的に反省し、国民一人ひとりが応分の経済的負担をしつつ連帯感を強める以外に真の再生はあり得ないのではないか。

 時間が経過するにつれ、敗戦直後の国民の生き方と今震災後の状況が次第に重なり合い、二つのことを痛感するようになった。

 一つは、「政治主導」を強く打ち出した近年の日本政治が規制緩和、自己責任、小さな政府といった論点に関心を集中させてきたことである。「公益」は二の次で、まず「私益」を守りその拡大を政治の根本課題と考えてきた。大地震の襲来は、人と人が時に支えあわねば生きていけないという「共同体意識」を改めてわれわれに自覚させたのではなかったか。

戦後の日本社会では、「公」や「公益」は人気のない仮想敵になることが多かった。一つの具体例は、「公務員たたき」であろう。品位に欠ける一部エリート公務員の金銭スキャンダルを騒ぎ立て、公営事業全体を浪費と非効率、官民癒着の「悪の巣」とみなしてきた。その結果、「公」は「私」に分解され得るという浅薄な経済思想がまかり通り、多くの公営事業は営利事業化され、国民の共有財産は個人に払い下げられた。

 今回の大震災の一つの教訓は、地理的・地形的要素や土木工学の知見を配慮しないで、「効率性」の視点のみから公共事業を、人気取り目的で「仕分け」するような愚を犯すな、ということだろう。

 ≪防災視点抜きの事業仕分け≫

 地球表面を覆う厚さ100キロほどの岩板(「プレート」)は、大きなものが地球に十数枚存在し、少しずつ動いているという。近海に、それらのうち4枚も存在する「地震大国日本」の土木事業は、地震のほとんどない国のそれとは異なってくるはずだ。

 公共事業の内容を防災の視点から吟味することなく、単純に「コンクリートから人へ」と大見えを切り、エネルギーの多様化が重要であるのに「ダムはムダ」と切り捨てるだけでよかったのか。

日本社会は改めて「公益とは何かを再考する」という大きな課題を突きつけられた。その公益と表裏一体の関係にあるのが社会の連帯意識である。大震災で被災した地域と他地域との間に生まれるさまざまな「格差」の拡大は防がなければならない。「格差」は連帯意識を突き崩すからである。

 もう一つ、筆者が痛感した点は、この「公益」を再考する姿勢ともかかわっている。われわれ日本人にとって責任と反省とは何かという問題である。

 「努力を重ねれば、再建はできる、だからガンバレ」という応援だけでは、時に、「無責任な適応力」のみを生み出さないだろうか。この点に関して、敗戦直後の日本人の精神内容を鋭く抉(えぐ)り出した高坂正堯『一億の日本人』の冒頭部分が思い出される。

 ≪敗戦と日本人抉った高坂正堯≫

 戦後数カ月を経て日本を訪れた外国人の多くが、日本人の奇妙な明るさを認めて奇異の念に打たれたという。戦禍に見舞われたほとんどの国々では、混沌の中で人々がなすべきことを知らず首をうなだれているにもかかわらず、日本では人々ががむしゃらに働いていることに強い印象を受けたのである。この軽薄さと無責任さが一体となって、日本人の柔軟な適応力と強靱(きょうじん)な生命力が存したとしつつ、高坂は次のように言う。

「それは日本の風土というより深い根をもっていた。日本は台風や地震などの天災になやまされる国であり、人間のいとなみは突如として破壊される。(中略)災害をいさぎよくあきらめ、そしてめざましい復興をおこなうという日本人の習性は、こうしてうまれた。その習性は敗戦という未曽有の災害に際してもまた発揮されることになったのである」

 そして高坂は、「戦後の日本には、無責任と軽薄さと適応力と生命力の混合物がうずまくことになり、そこから再生へのエネルギーが生まれたのである」と記している。

 しかし、同じ惨禍を少しでも減らすためには、責任とその所在に関する反省はどうしても必要なのである。復興へのエネルギーは、義捐(ぎえん)金やボランティアの力だけでは不十分だ。「ガンバレ日本」でがむしゃらになるわれわれの「習性」への自省と責任の倫理を再確認することが、いま求められているのではなかろうか。

(いのき たけのり)