毎年8月6日の広島、そして9日の長崎における原爆慰霊祭で、多くの人々が黙祷を捧げ、犠牲者の御霊を慰める。無念にも一瞬にして焼き尽くされた同胞、地獄の苦しみを味わいながら朽ち果てた同胞に思いを馳せ、この悲劇を二度と繰り返さぬことを誓う。広島、長崎に出掛けなくても、この日は誰もがとても厳粛な気持ちになる。原爆を落とされた国に生まれたから。日本人だからです。
原爆慰霊碑の有名な言葉「過ちは繰り返しませぬ」。誰がどういう立場で云ってるのか、誰が過ちを犯したのだの云う議論が昔からある。文章を揮毫したのは広島大学の教授だったらしいが、「誰が」と云う主語や「何が」過ちだったか、肝心な箇所を示していない。たぶん、敗戦直後に広がった一億総懺悔の風潮や、被占領下の空気から生まれた言葉なんでしょうね。
「戦争をしたのが悪い」、だから「ごめんなさい」、これだけ多くの方々が亡くなったのに、われわれは生きてます、だから「すみません」みたいな気持だと思う。冷静に考えると特に何かを反省してるわけじゃないし、別に謝罪しているワケでもない。新型爆弾の脅威に恐れおののいた日本人が、敗戦に打ちひしがれ、占領軍に気をつかいながら、頭を垂れている様子が感じらます。
さて、仮に1945年8月6日、自分が広島の爆心地にいたとする。午前8時15分、原爆が爆発した途端、熱と光で消滅し昇天し、多くの人々と一緒に天国に行き、その後は魂として日本を見守っていたとする。そして、原爆慰霊祭を上から見下ろす。多くの日本人の子孫が集まって、尊い犠牲に感謝し平和への思いをあらたにする姿に触れ、きっと嬉しく思うだろう。でも、ひたすら「平和」と「反戦」と「核廃絶」を唱える姿を見たら違和感を覚えるんじゃないだろうか。特に菅首相みたいに「脱原発」なんて云われたら、おいおい何を無関係なコトをと呆れるに違いない。
原爆で命を失った御霊は、「反戦、反戦」と云っても敵が攻めて来たら、戦わざるを得ないことをよく知っている。「平和、平和」と唱えても平和にならないことも知っている。「核廃絶」は理想だとしても、世界の情勢を見れば非現実的なのは明らかだ。御霊は何でも知ってます。
自分が原爆の犠牲者なら、きっとこう考える。
日本よ、敵に原爆を落とされるような「悲劇を二度と繰り返してはならない」と。子供達をすくすくと育てるため、国を富ませよ、より強い武力を持て。他国の侵略を許さず、平和を守れ、と。
そして核の被害を直接受けた身であればこそ、他国の核攻撃を徹底抑止するため、日本よ「核武装せよ」と。
「われわれは日本の平和を守るために、核武装することを決意しました。どうぞ安らかに眠ってください。再び他国の核攻撃で多くの国民の命を失う過ちは繰り返しません」
原爆慰霊祭で首相がこんなスピーチ をしてくれるのなら、犠牲者の御霊は本当に喜んでくれると思います。
