「西村眞悟の時事通信」 より。
四日間、「電波の届かないところ」にいた。
京都の画家、畏友の中尾新也さんが、英気を養ってくれとアレンジし同行してくれた涸沢にいたのだ。
涸沢の標高二千三百メートルの雪渓の上で眠っていて見た夢は、日本政界の行く末、最後の一手、のことだった。電波が届かずテレビのないところの夢が最も生々しい。
そして、翌日の夢は、具体的な団体設立に関して、その団体に関する中国の間接侵略ともいうべき恩を押しつけた危険な策動を如何に遮断するかという葛藤。まるでドラマのような夢。その対中断交の決断をいよいよ仲間に通告すべきだ、と思っているときに目が覚めた。
頭の中に眠っていた思いが、涸沢で夢となって出てきたのかとも思う。
とは言え、本稿では、この夢に現れた事態、憂々しき我が国の現状ではなく、せっかく上高地からアルプスの中を歩いて登ってきたのだから、雨に打たれた森と岩の道中における偶感を記しておきたい。
二十五日早朝、大阪を出発し、信州松本に九時八分に到着し昼前に上高地バスターミナルに着いた。ここまで「乗り物」で来られる。ここから横尾まで歩く。
道中、梓川の畔で湯を沸かし昼食をとる。横尾小屋に着いたのは四時半だった。後半は、雨。かなり疲れた。
翌日は、横尾を七時三十八分に出発し、途中大休止をとりながら十二時四十分に涸沢小屋に到着した。かなり、かなり疲れた。 小屋に着いてから、雨。雪渓から吹き上がる風は指先をしびれさせるほど冷たい。その中を果敢にビールで乾杯。
そして、涸沢カールの向こうに巨大な恐竜のギザギザの尾のように聳える前穂高北尾根を見上げた。前穂高の頂はガスに覆われて見えなかったが、懐かしい見事な北尾根だった。
三十年ほど前の冬、雪の中で前穂高北尾根の頂上直下の鞍部で雪洞を堀って潜り込み、二日間沈殿して低気圧の猛威を避け、小康状態になった三日目に転げ落ちるように撤退した。
そのことを中尾さんに話すと、彼は北尾根を見上げながら、「死にかけたんやなー」と言った。
小屋の南に聳える前穂高から首を右に回して弓のような吊尾根を経て北を見上げると標高三千百九十メートルの奥穂高の岩峰が聳えている。
中尾さんに昨年の奥穂高頂上直下での救難ヘリ墜落事故現場を教えてもらった。それは、滑落して動けなくなった遭難者を救助するために高度を下げた救難ヘリが、遭難者をヘリにつり上げる寸前にプロペラを岩の壁に接触させて墜落した事故だった。そして殉職したパイロットは、自衛隊出身ベテランパイロットだった。確か空将の佐藤守閣下の部下ではなかったか。
この事故発生当時は、ベテランがどうして岩にプロペラをぶつけるような事故を起こしたのだろうかと思っていたが、奥穂高の吹き上げるガスに洗われた垂直の壁を見上げて、ベテランだからあそこまで近づくことができる、よって「救助可能」との判断に達し得たのだ。しかし、その救助作業に百%安全はない。従ってベテランだから事故が起こったのだと思った。
やはり、自衛官の事に臨んでは「我が身をかえりみず」という覚悟は、退職後も貫かれていたことを涸沢から奥穂高の事故現場を見上げて実感した。そして、殉職ベテランパイロットの冥福を祈った。
涸沢の夜は寝るまで酒、焼酎、ワイン、シャンパン。これらは、中尾さんの若き友人である石橋正和さん(強力)が、担ぎ上げてくれた。どうも中尾さんは、酒引き上げのために石橋さんを涸沢に誘ったらしい。この若き愛すべき強力君は、翌朝小屋を出発し二時間で奥穂高の頂上に立って十一時に小屋に戻ってきた。若さとは、何ともうらやましい。
上高地に入るのは二度目だった。しかし、季節と体力が違いすぎて同じ上高地に来ているとは思えなかった。
この度は、車で上高地バスターミナルに入った。そして、横尾まで歩いた。それでも、かなり疲れた。
三十年前は、冬、雪の中。上高地のかなり手前の沢渡で、道は閉鎖される。従って、荷物を担ぎ沢渡から雪道を幾度もトンネルをくぐって上高地に入った。そしてまた雪の中を横尾まで入ったのだ。上高地に近づくと、トンネルの出入り口は雪で覆われている。トンネルの頂上で雪に穴を開けてトンネル内に滑り込み、真っ暗なトンネル内をライトを頼りに歩き、雪に穴を開けてトンネルから出た。その繰り返しだった。
そして、翌日は横尾の避難小屋を早朝出発し、仲間とアンザイレン(ザイルで結びあって)して前穂高北尾根にとりついて頂上直下まで登った。そして、雪の坑を掘ってその中で寝た。
この度は、全て食事付きの小屋泊まり。歩いていて、雪の中を沢渡から横尾まで踏破しても疲れなかったかつての自分の体力を思い出して、うらやましかった。なぜあの時に、もっと度々、果敢な山行を続けなかったのだろうかと後悔した。
初めての上高地で出会ったのはたった一人だけ。宿泊予定の横尾避難小屋の番人だけだった。雪の中で一人住んでいた彼は、リーダーと顔見知りで、我々に出会うと「チョット、マスを捕ってくる」といって凍結した梓川でマスを捕ってきて避難小屋で美味しく食べた(これは内緒)。
この度の上高地はバスターミナル付近は文字通りバスで一杯で登山者というより観光客で溢れていた。さすがに徳沢を過ぎれば観光客はいなくなるが、それでも山小屋からは、かつて山小屋の食事で楽しみだった山菜料理が消えていた。マスはもちろん、山菜も捕ってはいけないからだ。
では、たまに出る山小屋の山菜、野菜はどこから来るのか。それが、中国産が多いらしい。やめてくれと言いたい。便利ではあるが、山小屋へのヘリでの荷揚げは考え物だ。乏しいなかでの山の料理の楽しみを無くしてしまう。
上高地の山小屋は全て新しく建て替えられており見覚えがなかった。ただ一つ、横尾避難小屋は、屋根などは新しくなっていたが、扉付近はかつて雪の中をたどり着いた時の面影を残していた。
有意義な山行だった。
三十年前は体力の御陰で「雪の行軍」ができた。
この度は強力の御陰で「酒の行軍」ができた。
涸沢に引っ張り上げてくれた中尾さんと石橋さん、そして、「こんにちは」と言い交わして山中で出会った人々にお礼を申し上げる。
これから、如何に激動が訪れようと、いや激動なればこそ、やはり、自分は一年に一度か二度は、山中で数日過ごすべきだと思いながら帰路についた。
以上、とりとめもなく。