自衛隊員と住民結ぶ絆。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








未来の自衛官、おにぎりの差し入れ…。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110726/dst11072621530022-n1.htm



東日本大震災後、岩手県内で支援活動をしてきた自衛隊に対し、達増拓也知事が撤収要請を行い、7月26日で活動を終え、撤収した。宮城県の村井嘉浩知事も近く撤収要請する予定で、これで最大約10万7000人という未曾有の”兵力“を動員した自衛隊の支援活動は、福島第1原発事故を抱える福島県内を残すのみ。この間の自衛隊の活躍については既に多くのメディアで報道されているが、筆者がこれまで取材したエピソードを改めて紹介したい。(梶川浩伸)


平時の活動の重要性


 宮城県多賀城市の陸自多賀城駐屯地に駐屯する第22普通科連隊の國友昭連隊長(1佐)は2009年8月に着任。前任地の第13旅団(海田市駐屯地=広島県海田町)で、同年7月に山口県などを襲ったゲリラ豪雨(死者32人)の災害派遣を取り仕切ったことから、「着任するとすぐに防災体制の総点検にかかった」(連隊関係者)。

 2010年10月から各中隊単位で担当区域を分け、自治体と協力して防災訓練を行った。さらに、制服で中隊旗を持ち隊列を組んで行動しながら、危険箇所や防災拠点などを確認した。理由は「普段から迷彩服の姿を見てもらうことで、いざというときの信頼感の向上につなげるため」(同)だという。

 一段落したのが2011年2月。直後に東日本大震災が発生した。「これまでの訓練がムダではなかったのは十分感じた」と同連隊幹部は話す。


小さな力持ち


 行方不明者の捜索・救難やがれきの処理の際、意外な大活躍を見せたのが「資材運搬車」。これは普通科、特科、施設科部隊に装備された小型の無限軌道装着車。主として不整地におけるさまざまな資材の運搬に使う。

諸元は全長約4・3メートル、全幅約2・15メートル、全高約2・19メートル、車両重量約5トン、最大積載量約3トン、最高速度時速約20キロ-という車両。

 これを陸自は全国からかき集め、現場の1個中隊に1両の割合で配備した。「小回りがきくし、何でも運べるし、とにかく役に立った」と中堅幹部も絶賛する。

 ただ、休みのない活動で人も機材も酷使された。チェーンソーもすぐに歯がぼろぼろになるなどし、「他の機材も結構壊れた」(幹部)。兵站の重要性を如実に示している。


卒業式


 宮城県岩沼市内には市立小学校が4校ある。そのうち1校は被災し、3校は無事だったが、卒業式は延期され、3月29日に簡素化して開くことになった。水道は復旧しておらず、来賓もなく、保護者の出席も見合わせ。

 そんな状況を知った同市を担当する陸自第33普通科連隊(久居駐屯地=三重県、鬼頭健司連隊長)の上級部隊の第10師団の音楽隊が、3隊に別れて3校の卒業式に参列し見事な演奏で子供たちにエールを送った。未来を背負う子供たちがきっと東北を、日本を復興させてくれるようにと。校長らは感涙にむせんだ。


感謝の捧げ方


 宮城県岩沼市には第33普通科連隊が3月12日から5月24日まで、約600人の隊員を展開させた。同市周辺にも他の陸自部隊が展開しており、撤収時にはそれぞれの自治体が盛大な「感謝の会」を開いて労をねぎらった。ただ岩沼市ではそうした会は開かれなかった。

 なぜか。同市の井口経明市長が明かす。

 「鬼頭連隊長から言われたのは、『復興の途中で帰るのだから、静かに帰りたい』ということでした。だから特別なイベントはせず静かに見送りしましたが、他の自治体に比べて感謝をしていないのではないかと見られることがあり、それは非常に残念でした」
それでも撤収時には特別に広報をしなかったにもかかわらず、岩沼市役所には近くの仮設住宅などから100人以上が見送りに来て、地元小学生が感謝状を贈り別れを惜しんだ。「大々的ではありませんでしたが、市民は強い感謝の気持ちを抱いているのです」と井口市長。


未来の自衛官


 岩沼市で献身的な活動を続ける第33普通科連隊の隊員らの姿を見て、1人の小さな男の子が「自衛官になりたい」と、避難所で活動していたある隊員に手紙を渡した。

 この隊員は感激し、指揮官にも報告すると、意気に感じた同連隊からはこの幼児に「入隊案内」が贈られた。

 もちろん”ジョーク“だが、同連隊が撤収時の見送りにこの幼児も来ており、隊員に向かって一生懸命敬礼を捧げた。隊員らも真摯な思いで幼児に敬礼を返した。


おにぎり


 宮城県内のある地域で被災者から自衛隊員におにぎりが差し入れられた。いつも冷えた缶詰しか口にしない隊員を気の毒に思ってのことだった。

 ただ、自衛隊は被災者から食料などを受け取っては支援の妨げにもなりかねないことから、一切受け取らないことにしていた。

 しかし、被災者の感謝の気持ちも痛いほど分かる。見かねたあるボランティアがその部隊の指揮官を建物の影に呼んで、「被災者の気持ちもあるし、素直に気持ちを受け取っては」と提案したところ、指揮官も感謝の言葉を口にして、隊員らはトラックの中などで目立たないように食べた。

 もちろん受け取ってもらった被災者らも喜んだ。

 隊員は1カ月以上も戦闘糧食I型という缶詰の食事ばかりだったから、ビタミン不足などから口内炎になる者が続発していた。その後、戦闘糧食II型というレトルトタイプに代わり収まっていった。II型にはビタミンなど各種栄養素も入れられている。
食事


 自衛隊員は全国から集結したが陸自は被災地やその周辺にある駐屯地に拠点を置いた。例えば統合任務部隊(JTF)司令部が置かれた仙台駐屯地(仙台市宮城野区)には通常時約2000人の隊員が、約5000人にまでふくれあがった。大和駐屯地(宮城県大和町)や船岡駐屯地(同柴田町)などその他の駐屯地も同様。

 ここで重大な問題が起きた。食事の用意や物資の補給能力がパンクしたのだ。

 これらは「業務隊」の担当だが、陸自は数年前から経費削減で業務隊の人員を減らし、駐屯地の食事を外部の民間業者に委託するようになっている。そのため急な能力の増強ができなくなってしまっていた。

 ある元幹部は「隊員なら○人分の食事を用意しろと言われると、倉庫の隅をほじくってでも材料を調達し、なんとかする。しかし民間の業者だとそうはいかない。被災地で物がない状況ではなおさらだった」と打ち明ける。

 最高幹部の1人も「基地を支える業務隊が重要と思い知った」と振り返る。震災前から指摘があったとはいえ、今後の大きな課題の一つだ。




草莽崛起 皇国の興廃この一戦にあり! 

      陸自は全国から「資材運搬車」をかき集め、被災地で活動する各中隊に1両の割で配備した。

      これが「小さな力持ち」として大いに役立った(陸上自衛隊提供)