「夕刻の備忘録」 様のブログより。
国会中継を見ていれば分かることがある。
それは自民党質疑者の質の高さである。
その理路整然たる論の組立て方は、まさに「詰将棋」である。これは谷垣総裁も認めておられたところである。「手順に相手を追い詰めて、後は投了を待つだけだ」というスタンスで質疑を進めるのが自民流である。その大局観に自負があるのだろう。
事前の準備も万端であり、基礎的な説明も省略せず、持ち時間の関係で複数の議員に質問を振り分け、それぞれが要点を追求して言質を取り、後に繋げる作戦を採られている。問題があるとすれば、話し方が少々ぎこちなかったり、元々弁舌爽やかならざるバランスの悪い口調であったりするという個人の資質だけである。
しかし、この方法は相手に因る。発災の関係で詰将棋はバラバラにされてしまった。詰んだ筈の将棋は、無かったことにされてしまった。
ただ問題はそれだけではない。
恥知らずに果たして将棋が可能かという問題である。将棋は自ら負けを認め、自らが「負けました」ということによって成立するゲームである。本人が覚悟を決めて、「負けました」と頭を下げない限り、勝負は続く。
将棋は王将を取ることをしない。「詰める」だけである。取られるまで進めるのは、将棋を知らない素人か、異常者だけである。それは最早将棋ではないのである。
自民党が相手にしているのは、この「異常者の集団」である。自ら謝罪することも無ければ、罪を認めることすらしない。絶対に「負けました」とは言わない連中である。
ホンの少しでも横を見ていれば、その隙に盤を引っ繰り返して、「もう証拠が無いから負けではない」と嘯く連中である。そんな子供染みたことを、と思う人も居るだろうが、実際こうして盤を引っ繰り返し、シラを切り、責任を相手に擦り付けて、その場から逃げるという場面を何度も何度も見せられてきたのである。
従って、今の自民党質疑者に必要なのは相手を論理的に「詰める」ことではなく、感情的に追い込むことなのである。発言内容はどうでもいい。少々論理的に破綻していてもいい。相手がその発言で「狼狽する有様を全国中継出来ればそれでいい」のだ。先日の海江田の如きは、あの場で畳み掛けていれば、即時辞任したに違いないのだ。
誠に残念ながら、国会中継を見ている国民はごく僅かである。しかも、その僅かな国民も、流し見をしているだけで、論理的に整合性があるか破綻しているか、そこまで丁寧に追い掛けている人は本当にごくごく僅かでしかない。
中継を見ている人の多くは、「静かな口調だな」とか「言い間違いが多いな」とかいった内容とは無関係なことに注意がいっている。
従って、質疑者はもっともっと感情的に、その場の雰囲気を荒げて、相手側を狼狽させ、その醜い本質を表に出すように心掛けるべきなのである。それだけでいいのである。
★ ★ ★ ★ ★
「世紀の大スキャンダル」を追求していても、毎度毎度、正確を期すあまり「市民の党・市民の会」「市民の会・市民の党」と繰り返されては大半の人がウンザリする。しかも、マスコミ誘導で「市民マラソン」や「市民ボランティア」に独特の意味を与えてしまっている現状では、「市民の会」が固有名詞であることも認識出来ない。また「市民」が近年の左翼思想の中核を為す概念だと知る人は少ないのである。
まるで近所のゲートボールのサークルの様な名称を連呼されても、少しも危機感が無いのである。ここは思い切って、「拉致実行犯の指導下にある組織」であるとか、「武力革命を未だに宣言している組織」であるとか、「極左テロ集団」と言い切った方がいい。
本件は、現首相が日本国解体を目指す「反日テロ組織」の資金源を長く務めてきた、という事件なのである。到底詰将棋の似合う話ではない。どのみち彼等は、時期を見て盤を引っ繰り返すに違いないのだ。そのチャンスだけを窺っているだ。
ならば、こちらから先手を打って、こちらから盤を引っ繰り返し、その盤で殴りかかるべきなのだ。出来れば、盤の角で、盤の角で殴り掛かるべきなのだ。
マスコミが報道しないのなら、報道せねばならぬように工夫すべきである。国会内乱闘を恐れてはならない。国会議員が乱闘を恐れ、それは民主主義のルールに反すると言い続ける限り、彼らこそが率先してそのルールを改竄し続けるであろう。そうなれば最後の手段として、国民がそのルールを破り、暴力沙汰に訴えざるを得ない事態になる。
その前に、そうした暴発が起こる前に、盤を引っ繰り返して、「角で」殴るべきなのだ。その意味は、やり方は色々とあるだろう。しかし、追及の手を自ら緩め、同僚議員に繋いでいくという手法は、もう限界に来ている。
相手は「外患誘致罪」が適用されるべき国賊である。常識を捨て、知性を捨て、立場を捨てる勇気が今こそ求められている。もはや国会は議論の場ではない、生きるか死ぬか、民主主義を生かすか殺すかの戦場である。彼等に民主主義を永久に葬られる前に、こちらから民主主義を一時倉庫に隠して、荒々しく対峙するべきなのである。
それは自民党質疑者の質の高さである。
その理路整然たる論の組立て方は、まさに「詰将棋」である。これは谷垣総裁も認めておられたところである。「手順に相手を追い詰めて、後は投了を待つだけだ」というスタンスで質疑を進めるのが自民流である。その大局観に自負があるのだろう。
事前の準備も万端であり、基礎的な説明も省略せず、持ち時間の関係で複数の議員に質問を振り分け、それぞれが要点を追求して言質を取り、後に繋げる作戦を採られている。問題があるとすれば、話し方が少々ぎこちなかったり、元々弁舌爽やかならざるバランスの悪い口調であったりするという個人の資質だけである。
しかし、この方法は相手に因る。発災の関係で詰将棋はバラバラにされてしまった。詰んだ筈の将棋は、無かったことにされてしまった。
ただ問題はそれだけではない。
恥知らずに果たして将棋が可能かという問題である。将棋は自ら負けを認め、自らが「負けました」ということによって成立するゲームである。本人が覚悟を決めて、「負けました」と頭を下げない限り、勝負は続く。
将棋は王将を取ることをしない。「詰める」だけである。取られるまで進めるのは、将棋を知らない素人か、異常者だけである。それは最早将棋ではないのである。
自民党が相手にしているのは、この「異常者の集団」である。自ら謝罪することも無ければ、罪を認めることすらしない。絶対に「負けました」とは言わない連中である。
ホンの少しでも横を見ていれば、その隙に盤を引っ繰り返して、「もう証拠が無いから負けではない」と嘯く連中である。そんな子供染みたことを、と思う人も居るだろうが、実際こうして盤を引っ繰り返し、シラを切り、責任を相手に擦り付けて、その場から逃げるという場面を何度も何度も見せられてきたのである。
従って、今の自民党質疑者に必要なのは相手を論理的に「詰める」ことではなく、感情的に追い込むことなのである。発言内容はどうでもいい。少々論理的に破綻していてもいい。相手がその発言で「狼狽する有様を全国中継出来ればそれでいい」のだ。先日の海江田の如きは、あの場で畳み掛けていれば、即時辞任したに違いないのだ。
誠に残念ながら、国会中継を見ている国民はごく僅かである。しかも、その僅かな国民も、流し見をしているだけで、論理的に整合性があるか破綻しているか、そこまで丁寧に追い掛けている人は本当にごくごく僅かでしかない。
中継を見ている人の多くは、「静かな口調だな」とか「言い間違いが多いな」とかいった内容とは無関係なことに注意がいっている。
従って、質疑者はもっともっと感情的に、その場の雰囲気を荒げて、相手側を狼狽させ、その醜い本質を表に出すように心掛けるべきなのである。それだけでいいのである。
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「世紀の大スキャンダル」を追求していても、毎度毎度、正確を期すあまり「市民の党・市民の会」「市民の会・市民の党」と繰り返されては大半の人がウンザリする。しかも、マスコミ誘導で「市民マラソン」や「市民ボランティア」に独特の意味を与えてしまっている現状では、「市民の会」が固有名詞であることも認識出来ない。また「市民」が近年の左翼思想の中核を為す概念だと知る人は少ないのである。
まるで近所のゲートボールのサークルの様な名称を連呼されても、少しも危機感が無いのである。ここは思い切って、「拉致実行犯の指導下にある組織」であるとか、「武力革命を未だに宣言している組織」であるとか、「極左テロ集団」と言い切った方がいい。
本件は、現首相が日本国解体を目指す「反日テロ組織」の資金源を長く務めてきた、という事件なのである。到底詰将棋の似合う話ではない。どのみち彼等は、時期を見て盤を引っ繰り返すに違いないのだ。そのチャンスだけを窺っているだ。
ならば、こちらから先手を打って、こちらから盤を引っ繰り返し、その盤で殴りかかるべきなのだ。出来れば、盤の角で、盤の角で殴り掛かるべきなのだ。
マスコミが報道しないのなら、報道せねばならぬように工夫すべきである。国会内乱闘を恐れてはならない。国会議員が乱闘を恐れ、それは民主主義のルールに反すると言い続ける限り、彼らこそが率先してそのルールを改竄し続けるであろう。そうなれば最後の手段として、国民がそのルールを破り、暴力沙汰に訴えざるを得ない事態になる。
その前に、そうした暴発が起こる前に、盤を引っ繰り返して、「角で」殴るべきなのだ。その意味は、やり方は色々とあるだろう。しかし、追及の手を自ら緩め、同僚議員に繋いでいくという手法は、もう限界に来ている。
相手は「外患誘致罪」が適用されるべき国賊である。常識を捨て、知性を捨て、立場を捨てる勇気が今こそ求められている。もはや国会は議論の場ではない、生きるか死ぬか、民主主義を生かすか殺すかの戦場である。彼等に民主主義を永久に葬られる前に、こちらから民主主義を一時倉庫に隠して、荒々しく対峙するべきなのである。