「菅現象」をめぐる困惑。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110718/plc11071803080002-n1.htm




何とも奇妙な、しかも居心地の悪い政治状況が続いている。中心にあるのは、「やめる、やめる詐欺」のような様相を呈している菅直人首相の「居座り」であるが、居心地のよい椅子に座りつづけている首相を見ている側は確かに居心地が悪い。皆が「なんであんたがそこに座っているの」という。首相の方は「オレにはやりたいことがあるからだ」という。いったい、この現象は何なのか。困惑の源泉は、何が問題の焦点なのかがもうひとつはっきりしないからである。

 私は政治の世界とは、ほとんどまったく接点をもたないので、情報はすべて新聞・テレビ等マスメディアを通じてのものである。メディアによると、3・11(東日本大震災)以降の対応の不備、内閣の意思決定の不透明さ、官僚との間の不信感、さらには最近の原発政策をめぐる混乱など、まったくもって首相失格だという。その通りだろうと推測はつく。

 しかし、菅おろしを唱えるマスメディアなどの論調ももうひとつで、「首相は権力にしがみつくために、方針も信念もなく支持率の上がりそうなことを何でもする」と批判する。だが国民の求めることを実行するのならば、それこそが「国民のための政治」ということになるだろう。

 ところがまた一方で、「首相は国民など無視しており、自分の地位や名誉にしか関心がない」とも批判される。だが政治主導というならある程度の独断は認めねばならないだろう。これではどちらが事態を正確に示しているのかよくわからない。

 しかも、では菅首相にかわって誰が首相になればうまくいくのか、と問うても適切な名前はなかなか浮かんでこない。事実、マスメディアによるこの種の世論調査においてもてんでばらばらな候補名が出ては消える、といった状態なのだ。

 おまけに、仮に自民党に政権が変わったとして、自民党が問題なく円滑に事態を処理していたとも考えにくい。本当なら、自民党は、大枠でよいが独自の復興構想やエネルギー政策を提示すべきであり、ただ「菅政権では復興は不可能だ」と訴えるだけでは、いかにもこころもとない。

 一般論としては、海外メディアなど、ほとんどあいた口がふさがらないといった様子で、なぜこの大変な時期に政権交代や首相交代で大騒ぎをするのか、と疑問を投げかけるのももっともであろう。

 にもかかわらず、これほど四面楚歌(そか)に立たされた首相はめずらしい。自党の敵対勢力との権力闘争はしばしばみられるが、幹事長から官房長官、官房副長官まで含めて側近からも事実上退陣を迫られている人物はかつてなかっただろう。

 いったい、何が起こっているのだろうか。

 実は、ここから推論できることは簡単で、問題は政策論ではなく人物論なのである。政策以前に、菅首相という人物にはほとんど人格上の問題がある、ということだ。私は菅氏がどのような人物かまったく知らないが、民主党も含め、政権を支えるはずの側近までがこぞって菅おろしに走るのは、この人が首相として不適格だからだと解釈するほかあるまい。

                   ◇

 そうすれば、先ほどの、「菅氏は国民の喜ぶことを何でもする」という批判と「菅氏は国民のことなど何も考えていない」という一見したところ対立する批判も理解できる。「菅氏は国民のために政治をするのではなく、自己の権力のために国民を利用しているにすぎない」ということだ。

 さて、このことは何を意味しているのか。これはただ菅氏という固有名詞をもった特定の政治家の問題ではない。もしも、菅氏がもっぱら権力に関心をもつ首相不適格者(その点で人格的な問題をもつ人物)だとすれば、そんなことは以前から民主党員にはわかっていたことではないのか。ひとたびは菅氏を支持した民主党員が、いまさら「首相にふさわしくない」などといえる柄ではあるまい。

 しかし、もっといえば、これは「政治」というものの理解に関わる。民主党は、ことさら政策論議といい政策選択といってきた。国民は合理的に政策選択をせよ、と訴えてきた。しかし、実は、民主政治にあって国民が見るべきなのは「人物」なのである。選ぶべき基準の基本はまずは人物なのである。政策よりも、それを実現する人物をわれわれは見なければならない。私は、菅氏を知らずとも、それでも昔からあの笑顔や話し方に何か居心地の悪いものを感じていた。もっともこれは「個人的感じ」であって、だからどうというわけではないが。

 民主政治の質は、結局のところは、われわれの「人を見る力」に依存するのである。だから、小沢(一郎元代表)、鳩山(由紀夫前首相)、菅のトロイカによって走り出した民主党をひとたびあれほど支持した人々は、いまさらこの三人が期待はずれだったなどと簡単にいえるものではあるまい。ただ、自らの「人を見る目」のなさを反省するほかあるまい。

 政策は言葉で語られる。言葉は重要である。しかしまた、今日の政治舞台では言葉はあまりに軽々しく、便宜的でかつ耳当たりよく使われる。すると問題は、言葉を使う人物へと戻ってくるのであり、われわれの人物を見る目に帰着するだろう。民主政治の土台は、国民の「人を見る目」にあるといわねばならない。


                                       (さえき けいし)