後世に残る軍神の魅力。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【消えた偉人・物語】広瀬武夫

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110716/art11071608120001-n1.htm




 戦後の教科書から消えたのは軍人とその逸話である。東郷平八郎、山本五十六、木口小平、佐久間艇長をはじめ、戦後の教科書は意図的に軍人を教科書から排除した。

 戦前の教科書で最も多く取り上げられたのが、日露戦争の旅順港第二次閉塞(へいそく)作戦で命を落とした広瀬武夫(1868~1904年)である。修身教科書では「ヤクソクヲマモレ」「チュウギ」の項目で取り上げられたが、国語教科書にも載っていた文部省唱歌「廣瀬(ひろせ)中佐」の方が広く知られている。

 轟(とどろ)く砲音(つつおと)飛来る弾丸/荒波洗ふデッキの上に/闇を貫く中佐の叫び/杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや

 船内隈なく尋ぬる三度/呼べど答へず捜せど見えず/船は次第に波間に沈み/敵弾いよいよあたりに繁し

 今はとボートに移れる中佐/飛び来る弾丸に忽(たちま)ち失せて/旅順港外恨みぞ深き軍神廣瀬とその名残れど

 修身教科書では、「タイハウノタマニアタツテリツパナセンシヲトゲマシタ」という表現で広瀬の「チュウギ」を讃(たた)えている。しかし、広瀬の名をとどめたのは、杉野孫七兵曹長の消息を「船内隈なく尋ぬる三度」した姿に、広瀬の人間的な魅力が凝縮されていたためであろう。

 「廣瀬中佐は乗員を端船(はしぶね)に乗(のり)移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため、自ら三たび船内を捜索したるも、船体次第に沈没、海水上甲板に達せるを以て、止むを得ず端船に下り、本船を離れ、敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して、海中に墜落したるものなり。中佐は平時に於ても、常に軍人の亀鑑(きかん)たるのみならず、其の最後に於ても、万世不滅の好鑑を残せるものと謂(い)うべし」

これは連合艦隊司令長官の東郷平八郎が、旅順港第二次閉塞作戦について報告した一節だ。数日後、旅順港口に頭部に砲弾を受けた日本軍人の遺体が漂着。ロシア軍は遺体を手厚く葬ったと記録されている。

 広瀬の葬儀には英国公使や米国領事も参列、海外でも報道された。また出身地の大分県竹田市には昭和10年に広瀬神社が創建された。広瀬の生誕日である5月27日の例大祭には戦後も海上自衛隊の幹部が参拝を続けている。


                              (武蔵野大学教授 貝塚茂樹)




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                    広瀬の指揮で旅順港口付近に沈んだ「福井丸」