武士の名前はややこしい。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






【本郷和人の日本史ナナメ読み】(12)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110703/art11070307430003-n1.htm



前々回で宇喜多(うきた)直家、前回は斎藤道三(どうさん)ですから、今回は松永久秀だろう、と予想してくださっていた方、ごめんなさい。松永については大きな問題とともに考えてみたいので、しばしお待ちください。

 本紙5月29日付朝刊で書評を書かせていただきましたが、小谷野敦(こやの・とん)さんの『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』(青土社)はお手に取っていただけたでしょうか。日本人の名前について実に端的にまとめられているので、ぜひ。で、今回はそこには触れられていない戦国時代の名前を二三(にさん)、小ばなし風に取り上げてみようと思います。

 越前の守護大名といえば朝倉氏ですが、その初代の人物で、17カ条の家訓を残したとされるのは? 答えは朝倉孝景(たかかげ)なのですが、この方、時に敏景(としかげ)とも呼ばれる。どうしてかというと、曾孫(ひまご)に孝景(有名な義景(よしかげ)の父)がいて紛らわしいから。初代孝景ははじめ敏景、次に教景(のりかげ)、それから孝景と名を変えている。そこで彼を敏景と呼んで区別した。曾孫の孝景は曾祖父をリスペクトし、その名を継いだ。また、初代孝景の子の一人が父のもう一つの名、教景を継いだ。これが朝倉家の名将として名高い宗滴(そうてき)です。とてもややこしい。

先祖にあやかっての命名というと、伊達政宗がそうですね。本来は室町将軍の名の一字を賜るはずが、最後の将軍の足利義昭(よしあき)が有名無実な存在になっていたので、昭宗とは名乗らず、伊達家中興の祖とたたえられた政宗(1353~1405年)の名を受け継いだ。

 毛利元就(もとなり)の筆頭家老に福原貞俊(さだとし)という人がいます。元就死後は輝元(てるもと)を補佐し、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(たかかげ)、口羽通良(くちば・みちよし)とともに4人衆と称されました。この貞俊の父は広俊(ひろとし)なのですが、祖父は貞俊で、曾祖父がまた広俊。貞俊の子供は元俊(もととし)で孫は広俊(関ケ原で吉川広家とともに徳川家康に内通)。その子が元俊で孫がまたまた広俊。何でしょうね、この家は。江戸時代は家老で1万石あまり。幕末の蛤御門(はまぐりごもん)の変に登場する福原越後は、この家の当主です。

 前回の斎藤道三は跡取りの義龍(よしたつ)(1527~61年)と抗争して戦死するわけですが、はれて美濃の国主になった義龍は、なぜか、一色左京大夫(いっしきさきょうだゆう)を称します。母が丹後の守護を務めた一色家の出身というのが理由だったようですが、こんな例は他にありません。斎藤氏は藤原氏。一色氏は足利の一門ですから源氏。姓(かばね)まで変わってしまっている。義龍の子が龍興(たつおき)(1548~73年)ですが、彼も一色義棟(よしむね)などと称していた。しかも側近の日根野弘就(ひねの・ひろなり)には延永(のぶなが)を名乗らせている。延永というのは一色家の守護代を務めた名家ですから、一色への改称は相当に本気だったのでしょう。

なぜ、そんなことをしたのか。武士は元来、「家」を何より大事にするはずなのに。考えられる理由が、一つあります。推測するに義龍は、父の斎藤道三を殺害したことに、深刻な後ろめたさを感じていたのではないでしょうか。だから、斎藤の名を用いることに強烈な抵抗をおぼえた。そうは考えられないでしょうか。下克上の世とはいえ、やはり親殺しはきわめて特殊な振る舞いだったに違いありません。

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2代目美濃のマムシ


 土岐●芸(とき・よりあき)の愛妾(あいしょう)を道三が譲り受け、ほどなく生まれたのが義龍である。だから義龍は道三の子ではなく、●芸の子である、とする説があります。ただし、これは後年の創作のようで、すくなくとも義龍が「土岐」を名乗った形跡はありません。


草莽崛起  頑張ろう日本! 

           岐阜県常在寺に伝わる斎藤義龍の肖像(模本、東大史料編纂所所蔵)



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【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。

●=頼のおおがいが刀の下に貝