【歴史に消えた唱歌】(14)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110703/art11070307530005-n1.htm
日本統治時代の台湾・台北市にあった旭尋常小学校の創立は1897(明治30)年6月、というから、台湾統治が始まってわずか2年後、台北で最も古い小学校である。
同校の同窓会が今も毎年開かれており、6月上旬、その会に招かれた。参加者は十数人。昭和初期に小学校に通ったOB、OGだから年齢で言うと、87歳から88歳。学歴がなかなかすごい。東大、京大、九大、台北大(いずれも帝国大学時代)、陸軍士官学校…。その中に旧制の台北高校や京大で「李登輝さん(元台湾総統)と一緒だった」という人が何人かいた。
「『歴史に消えた唱歌』を毎週、楽しみにしていましたよ。赤レンガの総督府や昔の写真が紙面に出ていると懐かしくなってね」と、東京都世田谷区の黒川克(かつ)さん(87)。「湾生(わんせい)」(台湾で生まれた日本人)たちの思い出話は杯を重ねるごとに熱く、いつまでも尽きることがない。「われわれには、やはり台湾が故郷なんですよ」
大阪府東大阪市の福島文子さん(79)も同小に通った。「〈お年召したかガジュマルさん 長いおひげをだらり下げ…〉『ガジュマルさん』の歌はいまも歌えますよ。(紙面で見て)思わず口ずさんでしまいました。『ペタコ』も覚えています。今振り返れば、台北での生活はのんびりとして豊かで教育にも皆が熱心でしたね」
東京都葛飾区の廣繁喜代彦(ひろしげきよひこ)さん(81)からは、その『ペタコ』に関するお便りが届いた。「ペタコ(白頭烏)は人を恐れず、人家近くの電線にも羽を休めていました。『ぺー』は台湾語で『白』。『タッカー』は『頭』。つまり『ぺータッカー』が日本人の発声で『ペタコ』になったのではないでしょうか。小学校の学芸会では必ず『ペタコ』の踊りの出し物があったなぁ」と懐かしそうだ。
授業で作った独自の唱歌
台湾や朝鮮、満州の「独自の唱歌」が日本人教育者の情熱と高い志によって生まれたことは繰り返し書いてきた通りである。台湾で独自の唱歌を作った一條愼三郎氏や勝山文吾氏への思い出も寄せられた。
父親が台湾総督府の中央研究室林業部に勤めていた千葉県市川市の松浦緑さん(85)は、1932(昭和7)年、台北第一師範付属小学校に入学する。「この学校はね。台湾という新天地で理想の教育を行うべく内地から優秀な教師ばかりが送り込まれたそうですよ」
『ガジュマルさん』の作曲者である勝山氏は同校で音楽(唱歌)を教えていた。「(勝山氏作曲の歌は)『轎(きょう)』(台湾人が嫁入りのときに乗る輿(こし))や『ジャンク』(現地で見られた帆船)も覚えていますよ。当時、台北放送局(JFAK)では毎日夕方に、『うたのおけいこ』という番組があり、『ガジュマルさん』などを歌の上手な子供たちが歌い、勝山先生はピアノの伴奏をなさっていましたね」
松浦さんはまた、多くの独自の唱歌を作った一條氏の娘・春枝さんと友達だった。「『ハーちゃん』と呼んでいた春枝さんが1級上でね。当時、一條先生は師範学校の教師で宿舎によく遊びに行ったものです」
東京都東久留米市の鈴木絢(あや)子さん(87)も同小の出身で、やはり勝山氏に習った。
「小学校高学年のころ、勝山先生からクラス全員に『台湾独自のものを題材に歌詞を作りなさい』と課題が出されましてね。私も何やら作ったのは覚えていますが…どんな歌詞だったのやら。そのうちの何曲かは、勝山先生が曲をつけて唱歌になったと思います。学校の音楽室にはグランドピアノとオルガンがあり、勝山先生から毎週1回放課後にオルガンの手ほどきをしてもらったのが懐かしい」
便りは遠く台湾からも。新北市の劉添根さんは、終戦まで国民学校に通った。「六十数年前の記憶をたどりながら」と思い出の歌として『白鷺(しらさぎ)』や『牛車』を挙げた。1924(大正13)年生まれで、台湾の公学校(小学校に相当)に通った在日華僑、大阪市淀川区の曹源興さんは、「週1回、唱歌の授業があり、先生がオルガンを弾きながら歌を教えてくれました。最初に習った唱歌は『日の丸の旗』でしたね」。
涙あふれた「わたしたち」
満州(現・中国東北部)出身者の学校や都市の同窓会は会員の高齢化に伴い、近年解散の便りを聞くことが多い。こうした中で、露天掘りの炭鉱で知られた撫順出身者らで作る「撫順(ぶじゅん)会」事務局の栃木県下野市、濱地(はまち)勝太郎さん(82)から「5月に年1回の例大会を開催し、125人が集まりました。最後には恒例の『わたしたち』と『満鉄社歌』を歌いました」とうれしい手紙が届いた。
1937(昭和12)年から4年間、大連の大広場小学校に通った神奈川県大和市の末次令二郎さん(81)は、産経新聞の記事を見て、いまだに同校の同窓会が活発に活動していることを知り、2005(平成17)年、メンバーに加わった。とりわけ同級生たちが別途「ポプラ会」を作っており、「年2回、30~40人が集まって、旅行をしたり、皆で満州唱歌を歌ったりしたのが楽しく懐かしい思い出(現在は解散)」という。
満州生まれの“満州っ子”にとってテーマソングともいえる『わたしたち』は特別な思いが込められた歌のようだ。
大阪府高槻市の斎藤喜美代さん(74)は終戦時、中朝国境に近い満州国間島省の国民学校の3年生。日ソ中立条約を一方的に破って突然、侵攻してきたソ連軍から命からがら逃げてきた恐怖の体験がいまも消えない。
「何十年かぶりに『わたしたち』を歌い、当時の思い出が甦(よみがえ)ってきて涙があふれました。父が勤務する会社の社宅の片隅に銭湯があり、そこで『わたしたち』をよく歌ったものです。日本に引き揚げてからも冬の寒い日に口ずさんだものです」
一方、奉天(現・中国瀋陽)の千代田小学校出身の横浜市磯子区、北原雅以(まさい)さん(74)からは質問が。「終戦後、母校はソ連軍に接収され、移った先の学校も北満からの難民収容所に。それからは、空きビルや個人の家、お寺などを借りての寺子屋学校。ピアノも楽譜もないなかで、中島和世先生が教えてくれた歌があった」という。
歌詞は〈朧(おぼろ)島影 ささやく小波 春の望みを光に乗せて 明日うららに明けて行く…〉。
「題名も作曲者も分かりませんが、皆で大声で歌ったその旋律はいまもはっきりと覚えており、あの時の情景とともに懐かしく思い出されます。どなたかこの歌を知りませんか?」
母が習った「案山子」の歌
日本統治下の朝鮮にあった京城師範の教師たちは「理想の唱歌集」作りを目指して、自らも朝鮮の歴史や風土を織り込んだ独自の唱歌を作った。
長野県諏訪市の行田敏一(ぎょうだとしいち)さん(87)は同校に1937(昭和12)年入学。ブラスバンドでクラリネットを吹いていた。「僕らの代は3分の1が朝鮮人生徒。仲良くやっていたねぇ。反日? 心の中にはあったのかもしれないが、少なくともそうした感情を表に出す同級生はいなかった。儒教の影響もあって、みんなすごく先生を尊敬していましたよ」
東京都練馬区の深尾淑子さん(86)は、京城師範付属小学校時代、朝鮮独自の唱歌『鶏林』を歌ったことを覚えている。京城師範の教員を務め、独自の唱歌を数多く作った五十嵐悌三郎(ていさぶろう)氏の次女、重子さんとは同級生だったという。
「(『鶏林』は)音楽の授業で習いました。新羅の国を歌った歌詞で、メロディーを覚え、よく口ずさんだものです。当時の朝鮮の状況は、記事にあった通り(反日ではなかった)だと思いますが、歴史というものは難しいですね」
京都市伏見区の金東春さんからは、今年95歳になる母親の朴文禮さんが、日本時代の朝鮮の小学校(普通学校)で習った『案山子(かかし)』の思い出話が寄せられた。「『案山子』は1年生のときに日本人の先生に習ったそうです。今ではベッドに寝たきりで言葉も発しない母に、『案山子』を歌ってあげると、『○○小学校万歳』と声を上げるではありませんか。私も一度、母の思い出の母校を訪ねてみたいと思っています」
◇
連載中、多くの読者からお便りやファクス、メールをいただいた。それを読みながら、「歌の力」の大きさを感じるとともに、植民地の教育に真摯(しんし)に取り組んだ日本人の姿が目に浮かんだ。その一部を紹介し、この連載を終えたい。
=おわり(文化部編集委員 喜多由浩)
