御前会議 運命動かす一文。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【日米開戦 70年目の検証】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110702/art11070207370002-n1.htm




「対英米戦を辞せず」-。今回、焦点を当てる昭和16(1941)年7月は、独ソ開戦を受け開かれた「御前会議」で決定的文言が国策に織り込まれた。さらに会議で了承された南部仏印進駐で米国との緊張は高まる。開戦を現代の視点でとらえる「考」は国を危(あや)める指導者の楽観論だ。原発事故以降、菅直人首相は最良の事態を想定して対応、被害を拡大させている。「必ずしも負けるものではない」という軍部も同様で、それは終戦まで変わらず、数多くの若者の命を奪うことになる。

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 ≪*昭和16年7月、南部仏印進駐≫

 ■決意なき「英米戦を辞せず」

 南部フランス領インドシナ(仏印)行きの兵を乗せた船が日本をたった2日後。首相の近衛文麿(ふみまろ)は「断言します。これは大きな戦争になります」と顔を強(こわ)ばらせる元外相、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の言葉をじっと聞いていた。船を戻すよう必死に説得する幣原に近衛は力なく首を振る。「ほかに方法はないですか。『御前会議』の決定を翻すことは、私の力ではできません…」

 支那事変以来5度目となった「御前会議」が開かれたのは、16年7月2日。

 独ソ開戦の対応として、「南方進出の歩を進め、情勢の推移に応じ北方問題を解決する」と南進を優先させる方針を示した「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定された。わずか10項のごく短い内容だったが、そこには重要な意味を持つ一文が記されていた。「対英米戦を辞せず」-。

 「海軍側が予算・資材をとるために入れた文句」(陸軍参謀本部)「(『対英米戦を引き起こす』と南進に反対する)松岡外相の主張にかんがみ、やむを得ず挿入した」(海軍軍令部)。誰一人開戦の決意を持っていなかったが、この一文が独り歩きを始める。

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 一方、「マジック」と呼ばれる暗号解読で日本の政策を随時把握できるようになっていた米国は、御前会議の決定を受け、直ちに日本に対する制裁措置の検討に入った。最後の警告として用意されたのは、在米の日本資産凍結。貿易を事実上不可能にする措置だったが、一部石油製品など指定品目については資金を放出し、軍事衝突は避ける狙いだった。

 しかし、現実には8月以降、一滴の石油も日本に渡ることはなかった。凍結の実務を担った対日強硬派、アチソン国務次官補らが資金放出を止めていたことに、政府上層部が気づいたのは、1カ月以上先だったが、それでも輸出再開は許されなかった。

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 資産凍結直後、海軍軍令部総長の永野修身(おさみ)は石油について「2年の貯蔵量を有するのみ、戦争となれば1年半にて消費尽くす」として、開戦を上奏する。

 しかし、「大勝はもちろん、勝ち得るや否やも覚束なし」と悲観する永野に、天皇は「つまり捨てばちの戦をするとのことにて、誠に危険」と危機感をあらわにした。

 ひたすらに戦争回避を目指した政府。勝算がないことを認識していた軍部。開戦なく、日本を操りたかった米国。誰の意にも沿わない方に事態は動き始めていた。開戦まで残り5カ月。

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 ≪if≫

 ■松岡外相が退任していなかったら

 昭和16年7月17日。外務省内に立つ陸奥宗光像の下には全省員が退任する大臣を見送る異例の光景があった。軍部勢力が拡大の一途をたどった時代。外務省が存在感を取り戻した立役者である松岡洋右の退場に嗚咽(おえつ)を漏らす者もいた。

 近衛文麿は松岡を排除し、日米交渉を進展させるため、いったん総辞職した上で、第3次内閣を発足させる。

 15年9月、日独伊三国同盟を締結、16年4月には「電撃外交」で日ソ中立条約を成立させるなど、剛腕をふるった。しかし、6月の独ソ開戦後は対ソ参戦を強硬に訴え、「松岡だけを辞めさせるわけにはゆかぬか」(天皇)と孤立する。内閣を去るにあたり、句を残した。

 --坊主めが 行き倒れけり 梅雨の旅

 ただ、「陸軍を手玉に取り玩(もてあそ)んだ」(石井秋穂大佐)といわれるほど、軍部に強気な姿勢と、政策転換をいとわない切り替えの早さが第3次内閣に欠落していたのは確かだった。

 離任後まもなく、「松岡外相の如(ごと)き論客がいない」(石井)と軍部内からさえ嘆きの声が聞かれた。要職にとどまり、軍部の独走に異を唱え続ければ、開戦決定に大きな影響を与えていたことは間違いない。

 「アメリカの参戦を食い止めたかった」。12月8日、涙にくれたが、肺の病に伏し、再び表舞台に姿を現すことはなかった。

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 ■時の流れ

 日米交渉が停滞していた昭和16年6月、独ソ戦が勃発する。北方の脅威が薄れた事態に乗じ、日本は南方資源獲得に向け、南部フランス領インドシナ(仏印)進駐の方針を決定。日米間の緊張が、さらに高まっていく。一方、閣内では対米強硬の外相、松岡洋右が孤立を深めていた。

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 ■主な参考文献

 「アメリカの対日戦略」(ジョナサン・G・アトリー著、五味俊樹訳、朝日出版社)▽「松岡洋右とその時代」(デービット・J・ルー著、長谷川進一訳、ティビーエス・ブリタニカ)▽「太平洋戦争由来記」(大橋忠一著、要書房)▽「真珠湾への道」(ハーバート・ファイス著、大窪愿二訳、みすず書房)





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           昭和16年8月11日、南部仏印サイゴンに入港した南遣隊旗艦「香椎」

           =写真はいずれも「昭和」(講談社)


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松岡を排除する目的で組閣された第3次近衛内閣。最前列が近衛、3列目左の軍服姿が陸相の東条英機



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