野党・自由民主党に“自由”は要らない-4 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





「夕刻の備忘録」 様のブログより。





昨今の国会議員の特徴であるが、週の中盤までは随分と元気に主張するが、後半になると周りを見回す。そして週末、地元に帰って主義主張が一変する。この繰り返しではないか。

地元の人は厳しかった。全く冷たかった。大変批判的だった。

そして、自説は霞のように消えてなくなり、地元への説明、国民への説明と話がどんどんすり替わって、強硬論は雲散霧消する。自民党が譲れば全てが上手くいくような幻想だけが自民党内にもたらされる。それが定番コースではないか。

地元の「意見」は厳しかった。

ところで、その厳しい意見とやらは何処から来たものなのか。新聞の受け売りではないのか。テレビそのままではないのか。マスコミに思うがままに誘導されている人達なら、それはそれは厳しかろう。


政治家は51対49で,51を助ける為に49を見捨てる決断をもする仕事である。残念ながら、それが現実だ。現実を見たがらない、奇麗事に終始したい国民に取って代わり、汚れ仕事をするのがその本務だ。

被災地を助ける為に全力を尽くすのは、むしろ国民の方ではないか。国会議員は冷静に、被災地の問題と国家の問題を切り離して考えるべきである。先頭に立つのは国民である、それを支援するのが議員の仕事である。幾ら大災害だといっても、被災していない地域の方が遙かに多いのである。それを東北地方に依存した発想のみで、天下国家を語ることは、評論家の仕事であって国会議員の仕事ではない。

頭のおかしな連中相手に正攻法に拘って、その結果、負けましたでは話にならない。相手は異常者なのだ。異常者相手に論を戦わせても、情に絡めて訴えても、何の意味も持ちはしない。彼等に通じるのは「力」、それだけである。

異常者は力の信奉者である。力の信奉者は力を最も恐れる。法を恐れず、力を恐れる。それに怯える者の集まりは、即ちカルト集団である。カルトやテロリストに、素面で説得に及ぶ者は、仲間をさらなる危険に曝す。奪われた仲間は戻ってこない。


要するに、マスコミに洗脳された地元支援者に怯えているような議員には、カルト集団から仲間を助け出すことは出来ないのである。今、我が国はマスコミという名のカルト集団に洗脳されている。その洗脳を解き、取り戻そうとネットで必死の活動が続けられているのである。

にも関わらず、洗脳された人間の批判を真に受けて、その洗脳を解こうともせず、それを糺そうともしない態度では「奪還」の為の力にはならない。マスコミ解体の先頭に立つどころか、一番先に踵を返して一体どうしようというのか。


先日、創生日本の会議で、某大学の教授の講演する様を見た。最後に参加議員から質問が出た。「地元の意見が厳しい、どうすれば分かって貰えるか、どうすればいいのか」と項垂れて問い掛けていた。それは確かに切実な問題であろう。しかし、この問に教授は如何に答えたか。「真摯に説明を繰り返すしかない」「いつか通じるはずだ、分かってもらえるはずだ」「マスコミ報道が偏向しているからといって、これを変えさせることは出来ないのだから」と繰り返したのである。

流石マスコミ出身の教授である。この遣り取りを聞いていて、議員も忙しいだろうに、なんて無駄な時間を費やしているのか、と暗澹たる気持ちになったものである。これでは議員が「絶望する」のも致し方ないのかもしれない。捏造・偏向が当り前のマスコミを糺さねば、何も始まらない。その方法こそ議論すべき問題であり、その解決策を模索する為に、派閥の会合にまで呼んで「勉強会」を催しているのであろうに。

地元の有権者に的確な説明も出来ないのなら、議員失格なのである。しかし、その前提となる基礎的情報を提供するマスコミがここまで狂っているのだから、議員ばかりに責任を押し付けるわけにはいかない。我々の力を結集させて、正しい情報を日本の津津浦々まで広めなければならない。

その為に、多くの方が日夜地道な活動を続けておられるのだ。そんな状況の中で、当の議員本人から、絶望的な発言を聞かされては堪らないのである。自由民主党に今必要なものは“自由”ではない、責任と義務である。国家に対する責任と、マスコミと戦う義務である。異常者と戦う勇気である。勇気の裏付けになる力である。

力には力で対抗するしか他に方法は無い。
自らがダークサイドに落ちるか否か、そこに本物の勇気が要る。
勇者は力を恐れないが故に、力を執行する権利を持つ。
これ以上、異常者に力を与えてはならない。
「紳士」をかなぐり捨てる時が来たのである。