【本郷和人の日本史ナナメ読み】(11)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110619/art11061908070003-n1.htm
前回は宇喜多直家に言及しましたが、「梟雄(きょうゆう)」つながりで今回は斎藤道三(どうさん)を取りあげてみましょう。司馬遼太郎の名作『国盗り物語』前編の主人公で、大河ドラマにも取りあげられましたので、その名をご存じの方はたくさんいらっしゃると思います。
京都西岡生まれの彼は、はじめ妙覚寺の僧侶であり、ついで松波庄九郎と名乗って富裕な油問屋に婿入りする。やがて行商に出た美濃国に目を付け、武士として立身していく。陰謀によって政敵を葬り、時に恩人をも殺害し、西村勘九郎・長井新九郎・斎藤新九郎と名を変えるたび、目ざましい出世を遂げていく。ついには守護の土岐頼芸(ときよりあき)を追い出して、美濃の国主、斎藤道三になりおおせる。『美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)』という本に依拠した以上のストーリーは、「油商人の国盗り」として、下克上の代表とされました。
ところが史実は、これとは多少異なるらしいのです。永禄3(1560)年7月の「六角承禎条書写(ろっかくじょうていじょうしょうつし)」という古文書は、近江国の守護、六角承禎が家臣に宛てたものですが、そこには次のような内容が記されています。
○斎藤道三の父の新左衛門尉(しんざえもんのじょう)は、京都妙覚寺の僧侶であった。
○新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
○西村新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井新左衛門尉となった。
○新左衛門尉の子は長井家の惣領(そうりょう)を殺し、斎藤を名乗った。これが斉藤道三である。
つまり、国盗りは道三ひとりの事業ではなかった。親子2代で成し遂げたことだった。それでも道三父子は、たった2代で美濃を奪い取ったことに間違いありません。この文書で、そのウラが取れるのです。いかに下克上の世とはいえ、こんな事例はほかに見られません。
稲葉山(岐阜)に居城を構え、北は越前の朝倉、南は尾張の織田と戦い、近隣諸国から「美濃のマムシ」と恐れられた道三でしたが、その最期は悲惨なものでした。おとなしく隠居していればいいのに、跡取りの義龍と不和になり、その親子げんかは合戦にまで発展したのです。弘治2(1556)年4月、長良川河畔での戦いに敗れ、道三は戦死しました。享年は63と伝わります。
捨ててだに この世のほかはなきものを いづくかつひの住み家なりけん
明日の戦いで自分は死ぬだろう、と覚悟した道三は、子供たちに遺言状を書き、末尾にこの歌を書き記しました(『妙覚寺文書』)。ぼくはこの歌がとても好き、いや好きというのとはちょっと違うな、とても気にかかるのです。この遺言状の他の箇所で、道三は末子に、妙覚寺に赴き出家せよ、と指示している。一人が出家すれば、一族みなが浄土に転生できるのだ、と当時ならいかにもありそうなことを書きながら、彼はそこで筆を置くことができなかった。「命を捨ててしまえば、この世のほかに世界はない。人のついの住み家はどこにあろう。そんなものはないのだ」。この歌は現世に、異様なまでの執着を見せています。それが、道三という人だったのです。
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■梟雄の風貌
マムシというには品の良い顔に見えるのだが…。道三の諱(いみな)は、はじめ規秀。のち利政。物語では「秀龍」という名が知られるが、史料では確認できない。娘を織田信長に嫁がせ、「うつけ」と呼ばれていた彼の才能をいち早く見抜いたともいわれる。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。