朝鮮の偉人や名勝も歌われた。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





【歴史に消えた唱歌】(12)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110619/art11061907360001-n1.htm







 1926(大正15)年に、朝鮮総督府が編纂(へんさん)・発行した「普通学校補充唱歌集」(全60曲)は、その前後の朝鮮の唱歌集だけではなく、同じように日本が統治した時代の台湾や、強い影響力を持っていた満州で作られた唱歌集と比べても、「特異な性格」を持っている。

 

 朝鮮人児童が通う普通学校(小学校に相当)用に作られたこの唱歌集は、低学年を中心に「朝鮮語の歌詞の歌」が全体の3分の1強にあたる22曲も収録されている。さらには、歌詞の公募が行われ、約半数の29曲で採用された。作詞者の中には、朝鮮人児童も多く含まれていたことは、前回書いた通りである。

 


■国威発揚の歌はゼロ

 


 公募によって採用された歌を詳しく見てみよう。

 『白頭山』は中朝国境にある朝鮮の最高峰で民族誕生の神話の舞台となった聖なる山。『成三問』はハングルの制定に貢献した李氏朝鮮時代の学者・政治家の名である。『昔脱解』は、日本とつながりが深い新羅第4代の王。この曲の作曲者は日本統治時代の台湾で多くの独自の唱歌を作った一條愼三郎(1870~1945年)だ。

 歴史に名を残す旧都を描いた歌も多い。『鶏林』は現在の韓国・慶州(新羅時代の都)に残る新羅の王の生誕の地。さらには、高麗時代の都・開城(現在は北朝鮮)を歌った『高麗の旧都』や、同じく百済時代の都・扶余(同韓国)をテーマにした『百済の旧都』もある。

 このほか、公募による歌詞ではないが、中朝国境を流れる大河『鴨緑江』や、朝鮮随一の名山として親しまれた『金剛山』。日本への玄関口である『釜山港』は、日本の唱歌「港」(吉田信太作曲)のメロディーを借りたものである。

歴史上の人物・地名、名勝、自然…。いずれも、朝鮮民族として誇り高く愛着をもって歌える歌詞ばかりだ。郷土色が極めて強く、低学年用では子供たちの遊びを題材にした歌も多い。対照的に、学校行事などで歌ういわゆる儀式唱歌、皇民化政策や国威発揚につながるような歌はまったく入っていない。

 作曲者の多くは公表されていないが、当時の東京音楽学校(現・東京芸大)の関係者などに依頼されたとみられている。

 こうした傾向は、「普通学校補充唱歌集」の6年後の1932(昭和7)年以降、京城師範学校音楽教育研究会によって順次、編纂・発行された「初等唱歌」にも見られる。

 新羅時代に華厳宗を創設した僧をテーマにした『新羅の法師義湘』、李氏朝鮮時代の代表的な儒学者である『李退渓』、『南大門の鐘』『高麗焼白磁壺(こうらいやきはくじつぼ)』などの歌がそうだ。これらの歌は、五十嵐悌三郎(ていさぶろう)など、京城師範の音楽、国語教員らが自ら作詞、作曲したことも、すでに触れた通りである。

 島根大学准教授の藤井浩基(こうき)(43)の「朝鮮における五十嵐悌三郎の音楽教育活動」によれば、五十嵐は、1926年発行の朝鮮の教育雑誌の中で、北原白秋の詞に曲をつけた『祭の笛』、斉藤正一作詞の『夕のうた』『水車』といった曲も発表していたというから、同じ年の発行である「普通学校補充唱歌集」の編纂作業にも関わっていた可能性は高い。

これらの唱歌を「朝鮮総督府唱歌」と呼んでいる韓国芸術総合学校音楽院の音楽学科長、閔庚燦(53)は、「朝鮮総督府が文部省唱歌をまねて作ったもので、作曲者はすべて日本人だった(つまり、実質上は日本の唱歌)」と指摘した上で、「郷土の題材を広く取り入れたのは、(日本の朝鮮統治が)『文化政治の時代』に入り、現地の子供たちの心に合う歌を作れ、という方針が下されていたからだろう」と話す。

 では「文化政治」とは何だったのだろうか。1919(大正8)年3月1日に起きた朝鮮人による大規模な抗日運動「3・1独立運動」をきっかけに、日本は朝鮮統治政策を、それまでの「武断政治」から、融和を前面に打ち出した「文化政治」に変えていく。同年8月、第3代朝鮮総督に就任した斎藤実(まこと)は、憲兵警察制度の廃止や、新聞発行制限の緩和、大学教育の復活などを打ち出し、同時に芸術・文化を奨励した。

 朝鮮の歴史や文化、自然を最大限に取り入れた「普通学校補充唱歌集」は、こうした時代に作られた。同時期に起きた大正デモクラシーと呼ばれる民主的な風潮や、それに伴う自由教育運動、童謡運動の影響もあったに違いない。台湾でも1934(昭和9)年以降、台湾総督府が発行した「公学校唱歌」集(第2期)において、同じように公募による郷土色あふれた内容の独自の唱歌が大幅に取り入れられたのである。

 島根大学の藤井によれば、文化政治への転換で、「音楽の奨励によって、朝鮮の音楽界はにわかに活況を呈するようになる。特に、朝鮮総督府の機関新聞『京城日報』は文化事業も手がけ、日本人音楽家(作曲家の中山晋平ら)を招聘(しょうへい)して音楽会を多数開催した」(「植民地期朝鮮における官立音楽学校設置構想」)。さらには当時、朝鮮総督府政務総監、水野錬太郎らによって、朝鮮に官立の音楽学校を設立する構想まで進められていたという。



■わずか10年余の「寿命」

 


 ただ、こうした「時代」は長くは続かない。1937(昭和12)年の日中戦争の勃発以降、朝鮮の教育も内地と同じく、皇民化政策へ、と大きく舵(かじ)を切ることになる。38年の朝鮮教育令の改正に伴い、『君が代』や『紀元節』など儀式唱歌のみを収録した「みくにのうた」が別途設けられ、唱歌集も1年~6年別の「初等唱歌」に一新された。

 初等唱歌の緒言に、「本書ハソノ編纂ニ当リ、皇国臣民タルノ情操涵養(かんよう)ニ適切ナル唱歌ノ採択ニ留意セリ」と書かれているように、「普通学校補充唱歌集」にあった郷土色豊かな歌やハングル表記の朝鮮語の歌はバッサリと斬り捨てられ、代わりに内地の唱歌や国威発揚につながる歌などが収録された。4学年用には、38年に陸軍省馬政課と農林省馬政局が公募し、日本で大ヒットした『愛馬進軍歌』も入っている。

 「新作歌詞の公募」は継続されたものの、採用された多くは日本人児童であり、内容もまた、朝鮮の景物とは関係のない歌詞が多かった。

 さらに41年には朝鮮でも国民学校規程の公布が行われ、唱歌集も順次、「ウタノホン」、「初等音楽」に代わってゆく。その内容はもはや、内地の唱歌集とほとんど変わりはない。

 この時期に朝鮮・公州の小学校で教師を務めていた武藤文(ふみ)(86)は、「記憶にあるのは内地の唱歌ばかり。軍国色が強い歌が多かったように思います。(「普通学校補充唱歌集」にあった)『金剛山』や『鴨緑江』の名は懐かしいが、残念ながら、朝鮮独自の唱歌を教えた記憶はありませんね」。同じ時期に海州や延安の小学校で教鞭(きょうべん)をとった岡本文子(92)もやはり「覚えているのは内地の唱歌だけ」だという。

戦後になると、こうした日本時代の歌がなおさら遠ざけられたのは言うまでもない。朝鮮人の子供たちによって作られ、親しみを込めて歌われたであろう郷土色豊かな朝鮮独自の唱歌は、わずか10年あまりの“寿命”でしかなかったのである。


                        =敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)




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1926年発行の「普通学校補充唱歌集」(右上)と戦時中に発行された「初等音楽」(左の2冊)は対照的な内容だ(東書文庫蔵、大西正純撮影)


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