日出る国の民。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【震災を歩く】国難で強まる「遠野」の絆。




日本民俗学の祖、柳田国男によれば、著書の『遠野物語』が描く民話の世界は「目前の出来事」であり、「現在の事実」である。東日本大震災で被災した三陸海岸を歩いて、同じことを痛感した。ここには日本の原風景と現代の縮図がある。

 津波で加藤宏暉町長をはじめ、多くの住民が犠牲となった岩手県大槌町の旧町役場周辺。道路は通っている。だから、震災直後よりも整備されているはずだ。

 が、いまだに一面のがれきが広がり、横倒しになった家屋が散在する。主要幹線である県道北側に辛うじて残っている建物も焼けただれているか、低層階がえぐられ、支柱がむき出しになっている。自衛隊や警察の車両が行き交う。緊張感が漂う。十数年前に取材したユーゴスラビア(当時)紛争の現場を思い出した。

 小さな麦わら帽子が泥にまみれて落ちているのが目に入った。かつて住んでいた人たちのかすかなぬくもりがあった。頭が垂れる。天災の無慈悲さは戦争という人災をも超えるのではないか、とさえ思う。

 井上ひさしの代表作『吉里吉里(きりきり)人』の舞台・吉里吉里国は、東北地方内陸部、山川に囲まれた盆地に設定されたが、“本物の吉里吉里”は大槌町北部にある。海水浴場や漁港があったこの地区では、約800戸の家屋のうち半数近くが津波で全壊した。

 「一度死んだ命だ。前に進むしかない。だが、このままでは生殺しだ」

 吉里吉里を走る国道45号沿いでガソリンスタンドを経営する釜石稔さん(64)は言う。5月13日、営業を再開したが、建物は半壊したままで、ようやく雨露がしのげる程度だ。釜石さんは続けた。「早く方針を決めてほしい。国も県も町も」

避難所に暮らす吉里吉里3丁目の主婦(62)も同じ意見だ。「衣食住は何とか間に合っています。でも、復旧や復興にむけたグランドデザインがみえません。地域として、これからどんなふうに暮らしてゆけるのかがわからないのです」

 被災者に広がるこの不安は、岩手県が震災で全壊した家屋について関係者に再建の自粛を促しているためだ。では、いつ自粛が解除されるのか。「国が復興ビジョンを決めてくれないと…」。岩手県都市計画課の口は重い。

 「でもね、つらいのはみんな同じですもの」

 前述の主婦はそう言って微笑んだ。はたして彼女の気持ちを代弁しているかは分からない。が、『吉里吉里人』のなかにこんなせりふがある。「泣ぐのが嫌(やんだく)て笑って居(え)る者(もん)の気持(きもづ)コ、お前様(めーさ)にゃ判(わが)らねえべのう」

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 吉里吉里をはじめとした三陸地方は、民話発祥のころから、山間部の遠野とつながっており、いま、その絆を強めている。

 「遠野の町は七七十(ななしちじゅう)里とて、其(その)市の日は馬千匹、人千人の賑(にぎ)はしさなりき」といった一文(一部省略)が『遠野物語』にある。

 「七七十里」とは遠野物語研究所の高柳俊郎所長(70)によると「大槌、釜石、大船渡、陸前高田の海岸部4地区、そして花巻、紫波、岩谷堂の内陸3地区の計7地区と70里(この場合は約40キロ)の等距離にある交通の要衝という意味です」。だから『遠野物語』には吉利吉里(吉里吉里)や山田、大槌など被災地の名前や伝承が何度も登場する。

この地の利を生かし、震災以降、遠野が支援の拠点になっている。遠野市沿岸被災地後方支援室の話では、遠野は北海道や秋田、大阪、福岡など全国の警察署や消防署、自衛隊、さらにはボランティアの拠点となり、のべ4800人が活動に従事。現在は、災害救助からライフラインを中心とした復旧・復興支援に軸足を移しているという。

 これは、伝統の継承でもある。たとえば明治29(1896)年の明治三陸大津波。『遠野物語』には海岸部から避難してきた男性にまつわる怪異談が収載されており、吉村昭の『三陸海岸大津波』には《山間部の村落から有志によって組織された救援隊がやってきて、乏しいながらも食料が生き残った人々に支給された》とつづられている。

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力あわせ、耐え、「日常」をいつくしむ


 再び、吉里吉里。

 丘陵部にある町立吉里吉里中学校ではいま、敷地内に仮設住宅が立ちならぶかたわら、授業も行われている。筆者が訪れたとき、教室からは笑い声がもれ、放課後には校舎を清掃する生徒の姿があった。

 ふだんなら当たり前の光景である。しかし、震災後という「非日常」のなかの「日常」にあって、それはとても尊く、貴重に思えた。

 校舎の出入り口に目を移すと、「大槌中学校の皆さん 一緒に頑張っていこう!!」と書かれた張り紙が見えた。筆者の脳裏に、太宰治の随筆紀行文『津軽』の終盤の一節がよみがえった。

 《日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出(い)づる国だと思つた》

 さきの大戦末期、故郷・津軽のある寒村で、太宰が村をあげての大運動会を目にしたときの感慨である。

 東北人、また日本人というものは、古来、力をあわせ、耐え、「日常」をいつくしみ、そこに生きる民族なのだ。たとえどんな国難に見舞われようとも。

 だが、そんな国民に、国政を担当する者は甘えてはいないだろうか。唐突に、怒りに似た感情がわきあがってくるのを、抑えることができなかった。(関厚夫)