【最前線を見る】タイ・カンボジア国境紛争
タイとカンボジアの国境紛争は、断続的な戦闘と外交交渉の行き詰まりにより、暗礁に乗り上げている。ヒンズー教寺院遺跡プレアビヒア(タイ名・カオプラウィハーン)と、その周辺の国境未画定地域など、両軍が対峙(たいじ)する最前線をルポする。
(タイ東北部シーサケート県 青木伸行、写真も)
絶壁の紛争地
兵士はM16ライフルを手に、眼下に広がるカンボジアの広大な平原をにらんでいた。
パノムドンレク山脈に連なる標高657メートルの断崖(だんがい)絶壁の上。数百メートル脇にプレアビヒアがある。土嚢(どのう)で固められた塹壕(ざんごう)が目につく。どこかに、155ミリ自走砲などが潜んでいるはずだ。
この周辺4.6平方キロメートルが国境未画定地域。「ここは戦闘、立ち入り禁止区域だ」。兵士が口を開いた。22日、紛争の最前線は、不気味なほど静かだった。
数キロ下った検問所。兵士は「ここしばらくは静かだが、今も戦闘態勢にある。さっきも警報が出て、上まで上っていった」と言う。「2月の交戦のときは、BM21(多連装ロケット砲)がこの辺りに飛んできた。わが方の兵器はそこら中にある」と四方を指さした。
近くで土産物を売る夫婦は「砲撃で学校や家が何軒もやられ、1人が死んだ。畑仕事をしているときに。カンボジアが先に撃ったんだろう。砲撃があると離れた街に逃げる」と話した。
「政治のことはよくわからないが、カオプラウィハーンはタイのもの。カンボジアが撤退しないと、元の生活に戻れず商売ができない」と顔をしかめた。
戦略的要地
両国が国境の線引きに固執する背景を知るには、歴史を紐解(ひもと)かねばならない。
タイにスコータイ朝が建設される以前、そこはクメール(カンボジア)の版図だった。タイ東北部には、クメールが遺(のこ)した遺跡が数多くある。アンコール朝時代の9世紀に建てられ、アンコールワット(12世紀)よりも古いプレアビヒアも、そのひとつである。
だが、15世紀にタイのアユタヤ朝がアンコール朝を滅ぼすと、寺院遺跡もタイのものになった。プレアビヒアの帰属意識は、こうした歴史に根ざしている。
それだけではない。カンボジアの大平原を見渡せるプレアビヒア周辺は、戦略の要地でもあるのだ。
もうひとつの前線
プレアビヒアから西へ車で3時間半ほど。スリン県とカンボジアとの国境に、タームアントム遺跡がある。4月、戦闘はプレアビヒアから、この地域などに飛び火した。
軍関係者は「戦闘の前、カンボジア軍がカオプラウィハーン方面から移動しているとの情報が入った」と明かす。戦闘で民間人2人が死傷。兵士は8人が死亡し、100人以上が負傷した。陸軍第二軍管区のスラナリ部隊が今も展開中だ。兵力は「1万人規模」。「撃たれた分だけ撃ち返す」と、語気を強めた。
遺跡から5キロのノンカナサーマキ村。砲弾14発が落ち、民家1軒が壊れた。村長は「この村が砲撃を受けたのは初めてだ」と話す。
村長によると、国境は遺跡の裏。遺跡はタイ側にあるという。「4月12日に村の主催で、カンボジア側から軍関係者や住民が遺跡を訪れ、交流した。その10日後に戦闘が始まった」と、残念がった。村では自警団を組織した。
国境から13キロのノーイロムイエン村。砲弾はここまで届いた。どの民家にも塹壕がある。プラユン・ミースヨートさんは、爆発音と衝撃に「塹壕に逃げ込んだ」。着弾した軒先の土はえぐられ、壁は砲弾の破片が突き抜け穴だらけだ。雇い人が死亡した。
家は水牛などを売り10万バーツで建てた。政府の補償金は3万バーツ。「これでは屋根しか直せない」と嘆く。
家が直撃され、娘が負傷したボンチャイ・チョンコット村長は「戦闘になってほしくない」と願う。
「国境を通りカンボジアからは古着、タイからは肥料などが流通し、売買されている。戦闘になれば経済活動が止まり、生活が成り立たない」
村から西へ十数キロの国境の検問所は開かれていた。気温44度の炎天下、物資を積んだ軽トラックや荷車が行き交っていた。
破壊された家の前にたたずむノーイロムイエン村のボンチャイ・チョンコット村長(青木伸行撮影)