安政東海地震とロシア船救助。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【消えた偉人・物語】「ヘダ号」




時は1854年11月4日、伊豆半島の下田で幕府官僚とロシアの提督、プチャーチンとの間に国境画定のための交渉が開始された直後、推定マグニチュード8・2の安政東海地震が現地を直撃する。この時、下田に停泊中だったロシア使節団のディアナ号は巨大津波に木の葉のように翻弄され、船体は著しく損傷した。

 プチャーチン一行は船体の修理のため、幕府の許可を得て伊豆半島西岸の戸田(へだ)村(現・静岡県沼津市)へ向かったものの、満身創痍のディアナ号は駿河湾に面する宮島(現・静岡県富士市)の沖合まで流された揚げ句、浸水によって万事休すの事態に陥る。

 この時だった。宮島の漁民が懸命の救助活動に乗り出したのである。おかげで彼ら使節団は九死に一生を得ることができた。ロシア側の航海日誌には、日本人が示した振る舞いが感謝を込めて綴(つづ)られている。

 いわく、「人々は大急ぎで囲いの納屋と日除(ひよ)けをつくって、私たちが悪天を避けられるようにしてくれた。また別の人々は上等のござや敷物、毛布や綿入れの着物、それにいろいろな履物を持って来た。…何人かの日本人が目の前で上衣を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷えこんで震えている水兵たちに与えたのは驚くべきことであった」と。

付言しておくが、宮島の住民は自分たちも被災者だったのある。ロシア人の感激のほどが分かろう。

 その後、戸田村ではディアナ号に代わる新艦を当地の船大工が匠(たくみ)の技を駆使して建造。プチャーチンは村名にあやかって「ヘダ号」と命名し、無事祖国に帰還した。ロシア側が択捉以南を日本領と認めた日露和親(通好)条約の舞台裏では、このような救出劇が繰り広げられていたのである。

 時は流れて明治20年5月、プチャーチンの娘オリガが戸田村を訪問した。日本人に謝意を表するためである。一方、ヘダ号建造のプロジェクトに参画した無名の職人のなかから、世界に冠たる日本造船業界のパイオニアが育った史実も忘れがたい。

                             (中村学園大学教授・占部賢志)



草莽崛起  頑張ろう日本! 

               プチャーチン提督(戸田造船郷土資料博物館所蔵資料)



草莽崛起  頑張ろう日本! 

                「ヘダ号」模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵資料)