奇兵隊と帝国陸軍の設計者。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【幕末から学ぶ現在(いま)】 山県有朋(上)




菅直人首相の不信任や倒閣を目指す動きがあわただしくなってきた。それでも主要国首脳会議(G8サミット)に2回も出席できるのは、短命の政権が相次いだ日本政治の基準でいえば幸運というほかない。菅氏は政治技術と粘り腰に関する限り、日本の政治家の一断面を代表しているかもしれない。

 しかし、氏が今でも折に触れて政権を奇兵隊になぞらえるのは感心しない。というのは、首相の歴史の見方が薩長中心の順逆史観に近く、奇兵隊とその出身者が長岡はもとより、会津、福島、仙台などで明治以降ずっと評判が悪かった事実を知らない様子だからである。


東北人からは怨嗟の的


 長岡の河井継之助(つぐのすけ)と対決した山県有朋や時山直八(ときやま・なおはち)であれば、戦を交え町や城を占領されて遺恨が残ったにしても、勝敗は兵家の常という面もある。しかし、いまの福島県から宮城県の各地で放埓(ほうらつ)と無軌道の限りを尽くした奇兵隊出身の参謀・世良修蔵(せら・しゅうぞう)は、温和な東北人からも怨嗟(えんさ)の的となり、いまでも東北の維新史を知る人びとには忘れられない非道の人物なのだ。

 その意味でも、東日本大震災の被害に遭った福島や宮城の人びとを奇兵隊首相が慰問激励するのは、歴史のめぐり合わせとして興味深いことだ。おそらく市民主義者の菅氏は、農民が40%を占めた奇兵隊の「民衆性」を現代の市民性と同じように考えているのだろう。しかし、奇兵隊の実態は同時代の観察者がよく伝えている通りだ。

「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒くれ者の集まりだった。仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじゃった。やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町の者は噂した」(一坂太郎『長州奇兵隊』)


成り上がりの悲惨な末路


 多子若齢化の中東や南アジアで、就職できない若者がテロリストや傭兵(ようへい)になる現実と共通する雇用や人口増の問題を考えずに、奇兵隊をイメージだけで美化しては困るのだ。

 戊辰戦争終結後に長州に帰国した奇兵隊が、「脱隊騒動」で苛酷に切り捨てられたのは、大楽(だいらく)源太郎の項で述べた通りである。奇兵隊賛美は自由であるが、世良修蔵のような男が宮城や福島を統(す)べるディクタトル(独裁官)になって舞い上がった結果、敗者や弱者に対する武士の情や惻隠(そくいん)の情といった思いやりを欠いてしまった。奇兵隊員成り上がりの悲惨な末路をよくよく念頭に浮かべねばならない。


国民皆兵や徴兵令の元に


 奇兵隊の歴史的意義は、菅首相の理解とは違う点にこそある。身分を無視し武士50%、農民40%だった官民一体の軍隊は、疑似国民軍として、やがて明治新政府の国民皆兵や徴兵令の考えに生かされたことである。すなわち、明治の帝国陸軍は奇兵隊の考えを延長拡大したものにほかならない。そして、その設計者こそ奇兵隊軍監だった山県有朋なのである。奇兵隊を美化する場合には、それが明治の陸軍の系譜につながることをきちんと弁(わきま)えたうえでなくてはならない。

山県は4国連合艦隊を迎え撃った馬関戦争で大敗北を喫した後、欧米の優秀な火器に圧倒された教訓に学び、藩軍制の西欧化を主張し国家的な危機を軍事的に乗り切ろうとした。井上寿一氏の表現を借りるなら、山県は「軍事的なリアリスト」になったのであり、彼にとって「攘夷論はイデオロギーではなかった」のである(『山県有朋と明治国家』)。奇兵隊は軍事リアリズムと武器の西欧化を体現する山県の実験素材でもあったのである。


                                   (東大教授・山内昌之

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【プロフィル】山県有朋

 やまがた・ありとも 天保9(1838)年、長州・萩の下級武士の家に生まれる。松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に参加。奇兵隊軍監となる。元治元(1864)年、馬関戦争での長州藩敗北で開国論に転換。明治元(1868)年の戊辰戦争では長岡・会津方面を転戦。維新後は陸軍の整備や徴兵制確立に尽力し、6年に陸軍卿、11年に参謀本部長。16年には内務卿となって政界にも力を振るい、22年、31年の2度組閣。37~38年の日露戦争では参謀総長。元老中の元老として、軍・政界に築いた山県閥(長州閥)を背景に晩年まで絶大な発言力を発揮した。大正11(1922)年、死去。



草莽崛起  頑張ろう日本! 

大物元老として、明治後期から大正にかけて絶大な権勢を振るった山県有朋(国立国会図書館蔵)