巨匠が名を連ねた満州の唱歌。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【歴史に消えた唱歌】(8)



1905(明治38)年、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約により、ロシアから、東清鉄道・南部支線(旅順-長春間、後の満鉄線)の経営権や遼東半島の先端部(大連、旅順など・関東州)の租借権などを獲得する。日本による「満州(現・中国東北部)経営」の始まりである。

 主体となったのが翌1906年に設立された半官半民の国策会社「南満洲鉄道」(満鉄)だ。満鉄は、鉄道事業のみならず、製鉄、炭鉱、埠頭(ふとう)、ホテルなど幅広い事業を展開。多くの日本人が住む鉄道付属地の行政を担い(1937年まで)、学校や病院、住宅を建て、教員の養成まで行う。

 それまで、軍閥が割拠する荒野だった満州は、日本によるインフラの整備によって、鉱工業、農業が振興し、人口は飛躍的に増加してゆく。内地からも新天地での成功を夢みて多くの人たちが海を渡り、終戦前には軍人・軍属を除き、約155万人の日本人(関東州を含む)が満州に住んでいた。


田んぼ知らない満州っ子


 満州での教育を主導したのも、また満鉄である。1922(大正11)年には、関東州を所管する関東庁との共同出資で「南満洲教育会教科書編集部」を設立。内地とはまったく違う気候・風土を持った満州の地に即した国語、地理、理科など独自の教材編纂(へんさん)に乗り出す。

「唱歌」もそのひとつだった。当時、教科書編集部員で、後に児童文学者として「コタンの口笛」などの作品を残した石森延男(1897~1987年)は満州独自の唱歌の必要性についてこう語っている。

 「(満州の子供たちは)『井戸』という言葉も分からず、『田んぼ』『縁側』も『梅雨』も見たことがない。『村の鎮守の神様』『小鮒(こぶな)釣りしかの川』と歌っても、満州にはないので分からない…郷土愛を養うためには、満州らしい風物や習慣、伝説、四季感といったものになじませねばならない」

 1922年といえば、内地を知らない満州生まれの「満州っっ子」が育ってきたころだ。彼らはやがて、日本の満州経営を支える大事な人材になる。満州という土地への郷土愛を育てるのもまた、「教育」の重要な役割であった。

 こうして、1924(大正13)年8月、小学生を対象にした南満洲教育会教科書編集部発行による最初の「満洲唱歌集」尋常科1・2年用が出された。さらに同3・4年用、同5・6年用が、それぞれ20曲ずつ、計60曲の収録である。

 独自の唱歌が、日本統治下の台湾や朝鮮でも作られていたことは、すでに書いた。ただ、台湾などの唱歌集が現地の唱歌と内地の唱歌をミックスし、編纂されていたのに対し、満州の唱歌集は1940(昭和15)年まで、すべて満州オリジナルの唱歌だけで編纂されていた。

これは、台湾や朝鮮では総督府が教育を担っていたのに対し、満州では満鉄が教育を担当していたことが大きい。南満洲教育会教科書編集部には、石森ら新進気鋭の教育者や音楽家が内地から集まり、自由闊達(かったつ)で熱気にあふれていたという。彼らは満州という新しい舞台で実験的、先進的な教育に取り組み、満州の教育レベルを引き上げることにも成功する。

 「すべてがオリジナル」の満州の唱歌集は、こうした日本人教育者たちの意気込みの表れであった。


知名度優先に異論


 「意気込み」は唱歌の作者の選定にも現れた。

 1924年に出た最初の「満洲唱歌集」には、北原白秋(詞)、山田耕筰(曲)コンビによる『ペチカ』『まちぼうけ』『やなぎの春』の3曲(耕筰は『かれは』も作曲)が収録されている。さらに、作曲家では「汽車」の大和田愛羅(あいら)(3曲)、「海ゆかば」の信時潔(のぶとき・きよし)、「故郷」や「春の小川」などで知られる岡野貞一、「春よこい」「鯉(こい)のぼり」の弘田龍太郎、中田喜直の父で「早春賦(そうしゅんふ)」の作曲者、中田章(あきら)(各1曲)など、そうそうたる顔ぶれが曲を提供している。

作詞者も負けていない。アララギ派の歌人として活躍した島木赤彦が3曲、「ふじの山」「一寸法師」の巌谷小波(さざなみ)、「七つの子」「赤い靴」で知られる詩人の野口雨情…。まさに“キラ星のごとく”である。こうした巨匠を大挙動員したのも台湾や朝鮮の唱歌にはない満州だけの特色だ(表参照)。もちろん、依頼にあたっては相当額の作曲・作詞料が教科書編集部から支払われたであろう。

 ただし、こうした知名度優先の「巨匠主義」というべき方向性には、教科書編集部内にも異論があった。その急先鋒(せんぽう)が当時の編集部員で、後に満州の唱歌を数多く送り出すことになる園山民平(そのやま・みんぺい)(1887~1955年)である。彼は、内地の巨匠たちの多くが満州の土地を知らないことを危惧していた。

 「歌詞にしても曲譜にしても、満蒙の景物に接しない内地の名家が、果たして真に満洲の子どもに適した郷土材料を作成することが出来るのか…」。園山は率直な物言いで、こう批判している。つまり、本来の趣旨である「満州の風土・自然に即した唱歌」はどこへ行ったのか、と言いたいわけだ。

 実際に、園山の不安は的中する。教育現場において、巨匠たちが作った唱歌の評判は、あまり芳しくなかった。満州色が薄いことに加えて、子供たちには「難しすぎる」という批判も聞こえてきた。

このため、1932(昭和7)年以降、「満洲唱歌集」が大幅に改訂された際には巨匠たちの唱歌は一部を除いてばっさり切られてしまう。

 代わって満州の唱歌を書いたのは、園山や石森ら、教科書編集部に属する教育者や音楽家、さらには現場の教師たちであった。とりわけ園山は、満州各地を回って土地のメロディーを採譜したり、現場の教師の声を聞き、多くの唱歌を作曲した。満州っ子のテーマソングとも言える『わたしたち』や『娘々祭(にゃんにゃんまつり)』『こな雪』など、今も歌い継がれている満州の唱歌の多くは園山の作である。

 一方、巨匠の作品で例外的に、現代まで“生き残った”のが白秋・耕筰コンビによる『ペチカ』と『まちぼうけ』の2曲だ。「ペチカ」とは、当時の満州でよく見られたロシア式の壁暖房のこと。「まちぼうけ」は中国の故事を題材にしたコミカルな歌である。

 ともにその後の改訂で満州の唱歌集からは消えたが、この「満州の香り」に包まれた名作は、後に日本の音楽教科書に掲載され、多くの子供たちに愛された。2つの曲が作られた当時は、白秋、耕筰の2人が親しく付き合い始めたころで、以来、コンビによる名作が数多く世に出されることになる。

2人の巨匠も、『ペチカ』と『まちぼうけ』には思い入れがあったようだ。

 白秋は、1929(昭和4)年に満州を旅行した際に作った詩をまとめた『満洲地図』を1942年に出しているが、大正期に作ったこの2曲を例外的に収録している。その理由を白秋は「すでに日満の少年のものになっているからだ」と書き残している。日本でも人気の歌になっていたのだろう。

 一方の耕筰は戦後、東京音楽学校(現・東京芸大)以来の親友である園山の著書に寄せた一文でこう書いた。「君(園山)としてあの時、まさか、あの歌が演奏会で歌われるようになるとは思わなかったろう。満洲という国の存在しない今日でも、広く愛唱されているということは楽しいことだものね」

 2人の巨匠の満州への思いが詰まった2つの歌。今やそのルーツが満州の唱歌であることを知る人は少なくなった。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)




草莽崛起  頑張ろう日本! 


草莽崛起  頑張ろう日本! 

                 「満洲唱歌集」 (東書文庫蔵、大西正純撮影)