【土・日曜日に書く】論説委員・鳥海美朗
陸上自衛隊の第10師団司令部がある守山駐屯地(名古屋市)で、東日本大震災の被災地から戻った隊員の体験を聞いた。
あの「3・11」から数日以内に各部隊は出動している。被災地に近い集結地点の船岡駐屯地(宮城県柴田町)まで、陸路16~18時間を要したという。
以下に紹介する自衛官の体験は、最大時には陸海空で約10万6千人が展開した今回の災害派遣ではむしろありふれた例だろう。特異な体験ではないこと自体が、大震災で示された自衛隊の任務の重要性を物語る。
◆坊やの遺体をぬぐう母
第35普通科連隊(守山駐屯地)重迫撃砲中隊の大野洋次1曹(35)が仙台湾に面した宮城県名取市の被災地に足を踏み入れたのは3月15日の早朝だった。
「見たことがない光景」が広がっていた。田んぼは泥水に埋め尽くされ、ぽつんと残った家屋の残骸に漁船が突っ込んでいる。
任務の第一は「生存者の発見」だった。が、捜索が遺体の収容につながるむごい現実を知るまでに時間はかからなかった。
小学5年の男児の遺体が見つかった。すぐに駆けつけてきた母親は、泥にまみれた坊やの顔を布で何度もぬぐった。
犠牲者の家族は皆、遺体がどこで、どのような状態で発見されたのかを詳しく知りたがった。
「それを説明するのが一番つらかった」
無数の「死」と直面せざるを得ないという意味で、被災地は「戦場」である。3児の父親でもある大野1曹はそう思う。
次々と見つかる遺体の収容に拒絶反応を示す隊員は一人もいない。だが、第10師団司令部の医務官、魚住洋一3佐(36)は「ご遺体が夢の中にも出てくる」というつぶやきを耳にした。
自衛隊が収容した遺体はすでに9400体を超えた。確認された死者の6割以上である。
◆縦割り行政の壁
非常事態にあって「自己完結性を備えた組織」として本領を発揮した自衛隊だが、しばしば「縦割り行政の壁」にぶつかった。
名取市の南、岩沼市で任務にあたった第33普通科連隊(三重県・久居駐屯地)の第2中隊長、小田浩次3佐(50)=現在第10師団司令部=が例を1つ挙げた。
懸命の捜索活動を展開していたとき、市が用意した重機はアームが短すぎることもあった。
「目の前にある長いアームの重機を使わせてくれと言ったら、『あれは県の重機だから』という。一刻を争っていたときに」
3月17日から5月10日まで、名取市など2市4町の避難所で巡回診療を続けた魚住3佐は「震災が年度末に起きたことが不運を増幅させた」とみる。機能を維持した病院でも予算の都合上、薬の在庫が少ない状態にあった。そこに患者が殺到しパニックが起きた。
「今の日本の社会は病院にしろ、工場にしろ、効率を追求するあまり、在庫をつくらないシステムになっている。これでは災害で助かっても、医療空白で命を奪われることになりかねない」
被災者向けの政府広報(4月15日号)に「自衛隊ドクターからの健康アドバイス」を書いた魚住3佐はインタビューの翌日、再び被災地に入った。医師として、また自衛官として、自分なりの大震災報告書をまとめるつもりだ。
◆自衛隊の士気は高い
陸上自衛隊は東日本大震災で15個ある師団・旅団のうちの10個を出動させた。第10師団でいえば計約9千人のうち3500人を派遣している。
隊員の士気は高い。「訓練に参加予定だからはずされる」と聞いた大野1曹は「東北に行けないのなら、自衛官になった甲斐(かい)がない」と上官に強訴している。
小田3佐の中隊は三重県内で発生した鳥インフルエンザへの対応で出動し、3月初めに駐屯地に戻ったばかりだった。それでも、「ぜひ行きたい」という部下の申し出が殺到した。
「問題は誰を残すか、この一点でした」
菅直人首相は今回、自衛隊(現員約23万人)の災害派遣規模を2万、5万、10万と1日ごとに拡大したが、現場は本来任務である有事への備えを放棄できない。
北朝鮮は核とミサイルによる威嚇を続けている。沖縄・尖閣諸島の領有権を主張する中国と、北方領土の不法占拠を続けるロシアは震災後、日本領域近くにヘリコプターや戦闘機を飛ばした。
ある中隊長が被災地の宿営地での夜食の際、若い小隊長らに問いかけた。
「今、有事になったら、われわれはどうする?」
これはむしろ、菅首相が取り組むべき緊急課題である。(とりうみ よしろう)