【都道府県 伝統の教え】大分県 福沢諭吉のふるさと
平成20年に教員採用汚職事件に揺れた大分県だが、もともと教育熱心な県として知られ、明治の思想家で日本の教育をリードした福沢諭吉を生んだ伝統もある。
中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子供で、大阪の中津藩蔵屋敷で生まれた諭吉は、1歳半のころ父の百助が亡くなり、中津に戻って幼少時代を過ごした。その後、長崎で蘭学を学び、江戸で後に慶応義塾となる蘭学塾をひらいた。
『学問のすゝめ』をはじめ数々の著書を残したが、著書以外に家庭で子供たちに伝えた教訓「ひびのおしえ」は、文部科学省の道徳副教材「心のノート」でも「どんな時代にも共通の規範があった」として「会津藩の什(じゅう)の掟(おきて)」などとともに取り上げられている。
「ひびのおしえ」の一部を紹介すると、
《ひとをころすべからず/けものをむごくとりあつかい むしけらをむえきにころすべからず/ぬすみすべからず/いつわるべからず うそをついてひとのじゃまをすべからず》
福沢諭吉は9人の子供をもうけた。「ひびのおしえ」は明治4年に長男の一太郎、次男の捨次郎のため、守るべきことを半紙に書いて教えたものという。後に全集にも収められた。