震災で崩れた今日的バベルの塔。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【正論】文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司




■震災で崩れた今日的バベルの塔

 3月11日の東日本大震災から数日経(た)って、勤務先の大学の研究室に入ったら、ある程度予想していたが、それを超えて本が散乱していた。床一面に本が雑然と積み重なり、本棚のひとつは倒れて別の本棚に寄りかかっていた。机にたどり着くために、とりあえず床にぶちまけられたようになっている本を順序も何もなく、本棚に投げ入れるように並べていった。

 そんな作業を10分ほどやり続けた頃だろうか、ふと、全集本などを除いてこれらの本が実につまらないものであるように思われた。それは、何か嫌な感じであった。というのは、新刊本の類いを私も人並みに買い揃(そろ)えていたが、そういう最近の知的営為から生産された本というものが、今回の大震災という過酷な現実に打ち砕かれたように感じられたからである。

 ≪過酷現実に耐えぬ虚妄の営為≫

 ポストモダンという知的風俗の流行以来の日本の精神的状況は結局、大震災という冷厳な事実に対峙(たいじ)できるような真剣さと深さを持ったものではなかった。それは、もっと長くみれば、「戦後民主主義」の下での知的営為というものが本質的に虚妄の中のものでしかなかったということである。

 特に近年流行していたような才人は、金融市場におけるデリバティブ(派生商品)の如(ごと)き一種の知的消費財を生み出しているにすぎなかったのではないか。それは、本質論からかけ離れた末梢(まっしょう)的な興味に訴求するものであった。

 大体、本の広告や著者の紹介などで、「知の巨人」などという言い方が、肯定的な意味で使われるなどというのは、実に人間観の錯誤を示している。いわゆる知識人、あるいは知識人になりたがっている青年たちは、みな「知の巨人」願望にとりつかれている。

 小林秀雄は「様々なる意匠」といったが、「様々なる」知識(というよりも情報)を知っておこうと必死である。新書の類いの洪水の如き出版は、その飽くなき欲求に対応している。研究室に散乱していた本には、その手の本も多かった。今日的な知が積み上げられたバベルの塔は、東日本大震災によって崩れ去るべきであろう。

 ≪罪と罰何度も読んだ小林秀雄≫

 池田健太郎という、やや若くして亡くなったロシア文学者でドストエフスキーの『罪と罰』の翻訳者としても知られる人が昔、小林秀雄全集の月報に興味深いことを書いていた。小林がもう60歳を過ぎていた頃、30代の池田は小林の家を訪ねた。その時、小林は何と岩波文庫の翻訳で『罪と罰』を読んでいるところだったという。

 池田という良質な精神の持ち主は、この事実に驚いた、あるいは驚くことができた。池田はこう思ったのである。小林は長くドストエフスキーを読み、批評してきたし、『罪と罰』の内容など知り抜いている、その小林が、何度も読んだに違いない『罪と罰』の翻訳を改めて読めるということは、まだそのものの中に新しいものを発見できるからである、と。そして、ロシア文学者で『罪と罰』の翻訳者である自分はかえって『罪と罰』そのものを読まず、研究書ばかり気にしている、と反省し、古典を繰り返し読むことはかえって難しく、新しい解釈などに注意をひきつけられている研究者根性というものを自戒していた。

 事は文学研究に限ったことではない。現代人は情報と解釈の過剰の中に生きていて、逆に事の本質にぶつかることを避けている。本質は、ざらざらして厳しいからである。「様々なる」解釈の網の目から世界を眺めていた日本人は今回、世界そのものの過酷な事実とぶつかって立ちすくんでいる。

 ≪古典で心を正しい位置に置け≫

 今年、生誕150年の内村鑑三のことを、私は「心を正しい位置に置いた人」と書いたことがある。これは、小林秀雄と坂口安吾の有名な対談「伝統と反逆」の中に出てくる表現を使ったものである。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャにふれているところで、安吾がドストエフスキーは学がない、無知ともいえる作家だったと言ったのに対して、小林は学のようなつまらぬものは無くて、意識して努力を重ね「心を正しい位置に置いた人」だと答えた。内村自身、札幌農学校を首席で卒業し、生涯で全40巻に及ぶ著作を遺(のこ)したにもかかわらず、自らには、学才はない、徳才すらないと言った。

 大震災を機に日本人は、精神的に大きく変わらなければならないということは、ほとんどの人が感じているに違いない。今日の日本人が、生きている「今」という時間は、歴史的な時間である。あるいは、歴史的な時間にしなければならない。その変化の根底には、本質論から離れた知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、「心を正しい位置に置く」ことが必要なのではないか。

 そのためには、例えば古典を1冊、解説書とか現代語訳を捨て去り、原文を1年かけて読むこともいい。古典を謙虚に原書で読む行為そのものが、内容の理解や解釈などより、「心を正しい位置に置く」精神の土台を築くであろう。


                                       (しんぽ ゆうじ)