【正論】日本大学教授・百地章
東日本大震災から間もなく2カ月。被災地ではようやく仮設住宅の建設が始まり、復興に向けての一歩が踏み出された。今回の大震災は戦後最大の国難であり、文字通り国民が一丸となってこれを乗り越え、日本新生へのきっかけとしていかなければならない。
 すでに、将来の日本農・漁業の中心地となるような「東北州」の建設をとか、東北の復興は新しい国土観や国家像に基づく日本全体のモデルケースとなるようにといった刮目(かつもく)に値する提言もなされている。ただ家族や家・財産を失った被災者の厳しい現状を考えれば、時間との闘いもあろう。
 ≪財産権不可侵とする29条1項≫
 仮設住宅についていえば、政府は5万戸の建設を予定しているという。それはあくまで復興の第一段階で、本格的な街の再建ということになれば、直ちに被災地における建築制限などが問題になるし、高台に新しい住宅街を建設することになれば、広大な土地の取得をめぐってさまざまな法律問題も生じよう。その際、予想される憲法上の問題の一つは、国民の財産権の保障とその限界である。平成7年の阪神・淡路大震災でも、復興に当たっては、土地の所有権や建築制限をめぐりさまざまな困難に遭遇したと聞く。
 公共事業などにおいて地権者などの同意が得られない場合、強制的に土地を収用することは法律上可能である。現実的にはしかし、「伝家の宝刀」のようなもので、めったに行われない。それは、成田空港建設が一部の土地所有者の頑強な反対で遅々として進まなかったことを想起すれば分かる。
 根本的な原因は、財産権を「不可侵」としている憲法29条1項にあると思われるが、それ以上に、人権を絶対的なものと考え、「公共の福祉」のためであっても、みだりに制限できないとしてきた、戦後の支配的な憲法解釈に起因するところが大きいといえよう。
 故宮沢俊義教授によれば、「公共の福祉」とは「人権相互間の矛盾・衝突を調整する原理」であって、他人の人権以外の根拠、例えば国家や国民全体のためであっても人権を制約することはできないとされる。もちろん、最高裁は社会的利益や国家的利益による人権の制限を認めているが、宮沢憲法学は学界だけでなく、政界や官界にも強い影響を及ぼしてきた。
 ≪公共の福祉も人権には敵わず?≫
 そのような人権を絶対視する風潮の中で、有事立法をめぐる国会論議では、危機の克服より人権の尊重を優先するかのような主張がまかり通り、今回、災害緊急事態が布告されなかったのも人権に対する配慮が原因という。まさに本末転倒である。国際人権規約(B規約)では、国民の生存を脅かす公の緊急事態に際しては真に必要な限りにおいて人権の制限を認めており(第4条1項)、これこそ国際常識といえよう。
 確かに、憲法29条1項は「財産権の不可侵」を保障してはいる。しかし、3項では、「財産権の公共性」を謳(うた)っていて、正当な補償の下、「公共のために用ひることができる」とも規定している。また、かつての異常な地価高騰を受けて平成元年に制定された土地基本法でも、土地に対する規制については、公共の福祉の方が優先する旨を定めている(第2条)。
 したがって、今回の大震災からの復興に当たっても、多くの特別立法が必要とされるだろうが、それ以前の問題として、「公共の福祉」と人権の制限の関係について常識にかなった全うな解釈が行われなければなるまい。
 ≪戦後価値観問い直し迫る震災≫
 さらにいえば、今回の東日本大震災は、「個人」を絶対視して、「家族」や「国家」を軽視してきた戦後的価値観そのものを根底から問い直すことになった。つまり1000年に1度といわれる烈震と街ごと一瞬のうちにのみ込んでしまった巨大津波の中で、被災者にとって最も大切なのは「個人」よりも「家族の絆」であり、最後の拠(よ)り所は「国家」であった。
 国家以上の存在とされてきた個人がいかに頼りないものであり、国家なくして個人も人権も存在し得ないことを、多くの国民が今更ながら実感したのではないか。原発事故による放射能漏れの危険が叫ばれて、外国人の帰国ラッシュが続く中で、私ども日本人は、いざとなれば日本国と運命をともにするしかない、そう覚悟した人も少なからず存在したであろう。
 危機においてこそ物事の本質が立ち現れるという。だとすれば、従来のように個人を絶対視するのではなく、家族や国家をもっと重視する視点からの新しい憲法解釈が、今こそ求められていよう。
 戦後60余年、ようやく憲法改正国民投票法が制定されたというのに、国会の怠慢により、いまだに憲法改正はおろか改憲論議さえまともに行われていない。しかし、今すぐにでも可能なのは発想の転換と憲法解釈の変更である。日本の復興と新生のため、今こそ個人を絶対視する戦後的価値観の見直しの上に立ち、新しい憲法解釈を模索しなければならない。憲法記念日の今日、改めてそう思う。
(ももち あきら)
現憲法の策定が曖昧で、そもそも無効であるのだから日本国首相が一言「無効である」宣言すれば「大日本帝国憲法」は復活するのである。
現憲法通りの憲法改正手続きをしなくても良いのである。
