「夕刻の備忘録」 様のブログより。
自然災害に対する哀しみ。原発事故に対する嘆き。そして事故処理を通して明らかになった杜撰な管理体制に対する怒り。東京電力、保安院、原子力委員会への強烈な逆風が吹いている。
中でも東電に対する怒りは凄まじい。
原子力発電を止めるのは比較的簡単である。現在の「電気生活」を改め、エネルギー源の外国依存度を高める「だけ」の話である。当然、諸外国の政情不安が直ちに内政に反映することになるが、それも我慢する。様々な分野に波及する我慢の全体を、正確に予想することは出来ないが、それでも「我々日本人の我慢の許容範囲」には収まるだろう。今後、何年掛かるか分からないが、我慢に我慢を重ねて、その間に新エネルギーシステムへの移行を図る。極めて困難ではあるが、不可能ではない。
しかし、東電解体は原発解体ほど簡単ではない。本来ならば、原発をより安全なものに変えて、その管理・保全体制を徹底的に見直せばよいのだろうが、それよりも先に東電叩きが最高潮に達してしまった。即ち、使える原発を改善して使い、使えない東電を解体すればよかったものが、どうやらその逆、使える原発を潰して、使えない東電が残りそうな形勢である。
確認しておきたいことは、東電は叩かれれば叩かれるだけ、その体制を維持する力が増していくという点である。よほど慎重に、原子炉を扱うのと同じか、それ以上の慎重さと丁寧さで事に臨まないと、もっとも不潔な部分が生き残る可能性が高い。
あの海江田の騒ぎようを見よ。東電幹部に対する罵り方を見ていると、この男は自分が我が国の原子力管理の頂点にあることを全く忘れたかのように見える。自分を含めた政府の問題になると、やたらに長広舌で何について話しているのかさえ分からない枝野も、東電叩きに興じる時は、見違えるように短く強い口調、自信満々の態度で、次から次へと批判の言葉を浴びせている。東電社長の自衛隊機使用問題を批判した時のあの表情は、まさに狂気を孕んでいた。
要するに、「国民の東電叩き」は政府がもっとも望んでいることなのである。電力関係の労組と非常に深く繋がっている民主党政府が、嬉嬉として東電を叩き、国民がそれに熱狂するように仕向けている。電力総連ともっとも繋がっている民主党が。
その一方で、東電の社長は一向に凹んでいない。どれほど国会で罵られようと、本社前にデモ隊が押し掛けようと、会長共々平気な顔で過ごしている。避難所に行って「土下座をした」ことになっているが、謝罪する方もされる方も、共に畳の上に座った状態で、何が「土下座」なものか。単なる謝罪ではないか。
彼等の不敵な自信は何処から来るのか。あの尊大な態度は何処から来るのか。それは彼等だけが「電力を止める権利」を持っているからである。批判の嵐の中で、「どうも悪うございました、今日を限りで会社を畳みます」と嘯けば、誰が一番困るかをよく知っているからである。
国家の軸たる基幹企業が、「そんな馬鹿なことが出来るわけがない」と思われるだろうが、その「馬鹿なこと」をかつての国鉄は堂々とやっていた。スト権の無い国鉄職員が、スト権を求める「スト権スト」なる珍妙なものを主張して、電車を止めていたのである。
海江田は自身の給料を返却するとは決して言わないが、東電社員の給料は減額せよ、もっともっと減額せよと迫っている。チラリホラリと国有化の話まで出て来る。仮に東電解体、国有化となれば、どうなるか。おそらくは一時間に十五分、職員の休養の為に電気を止めます、などという話になるだろう。まさに「計画停電」である。今の組合員が国有化によって公務員になるのである。大出世である。民間では許されないサボタージュが、あの国鉄の悪夢が再び甦るのである。
東電解体は容易ではない、と書いたのはこれが理由である。我々は生活の基本たる電気を押さえられている。東電の企業風土を批判し、それを改善せんが為にあらゆる力を注いで、「国有化を切り札」に徹底的な再構築を目指したところで、もっとも取り出さなければならない病巣は、そのまま残る可能性が高いのである。
東電叩きをする時の海江田や枝野の嬉しそうな顔を思い出して頂きたい。昭和半ばの設定を持ち出し「これは人類未経験のレベルの災害ではない。従って東電は無限責任を負う」と断じる海江田・枝野の発言は必ずブーメランになり、自らに突き刺さるであろう。所詮は一民間企業に過ぎない現在の東電を、政府が挙げて批判しているこの異常性に気づいて頂きたい。
「責任の上限が無い」ということは、賠償金の多寡を意味しているのではなく、民主党政府の失政の部分をも含めて、東電が生贄になるということである。政府は全てを東電の責任にすり替えて、難局を乗り切ろうとしているのである。
同時に、幾ら叩かれても涼しい顔をしている東電社長や会長の分厚い面の皮を思い出して頂きたい。あの落ち着きは何を意味するのか。彼等は何を隠そうとしているのか。裏に何があるのか。如何なる力が働いているのか。よほど慎重に対処しないと、国民の真っ当な怒りは、そのまま我々がもっとも望んでいない結論を導く為に利用されてしまうだろう。従って、我々は東電及び原発に巣くう本物の病巣を取り除くと共に、あらゆる問題を政権延命に利用する政府をもターゲットにしなければならない。
見事に病巣を取り除く「名医」の登場が期待される。我々の声は、その名医の登場を促し、それを応援するものでありたい。今のままでは原発の一時停止すらままならず、東電も解体出来ず、民主党批判への結集力も弱まる。これでは国民にとってプラスになることは何も無い。彼等にはもっと慎重に、もっと残酷に対応するべきである。「熱狂」はその邪魔になるとしか思えない。
中でも東電に対する怒りは凄まじい。
原子力発電を止めるのは比較的簡単である。現在の「電気生活」を改め、エネルギー源の外国依存度を高める「だけ」の話である。当然、諸外国の政情不安が直ちに内政に反映することになるが、それも我慢する。様々な分野に波及する我慢の全体を、正確に予想することは出来ないが、それでも「我々日本人の我慢の許容範囲」には収まるだろう。今後、何年掛かるか分からないが、我慢に我慢を重ねて、その間に新エネルギーシステムへの移行を図る。極めて困難ではあるが、不可能ではない。
しかし、東電解体は原発解体ほど簡単ではない。本来ならば、原発をより安全なものに変えて、その管理・保全体制を徹底的に見直せばよいのだろうが、それよりも先に東電叩きが最高潮に達してしまった。即ち、使える原発を改善して使い、使えない東電を解体すればよかったものが、どうやらその逆、使える原発を潰して、使えない東電が残りそうな形勢である。
確認しておきたいことは、東電は叩かれれば叩かれるだけ、その体制を維持する力が増していくという点である。よほど慎重に、原子炉を扱うのと同じか、それ以上の慎重さと丁寧さで事に臨まないと、もっとも不潔な部分が生き残る可能性が高い。
あの海江田の騒ぎようを見よ。東電幹部に対する罵り方を見ていると、この男は自分が我が国の原子力管理の頂点にあることを全く忘れたかのように見える。自分を含めた政府の問題になると、やたらに長広舌で何について話しているのかさえ分からない枝野も、東電叩きに興じる時は、見違えるように短く強い口調、自信満々の態度で、次から次へと批判の言葉を浴びせている。東電社長の自衛隊機使用問題を批判した時のあの表情は、まさに狂気を孕んでいた。
要するに、「国民の東電叩き」は政府がもっとも望んでいることなのである。電力関係の労組と非常に深く繋がっている民主党政府が、嬉嬉として東電を叩き、国民がそれに熱狂するように仕向けている。電力総連ともっとも繋がっている民主党が。
その一方で、東電の社長は一向に凹んでいない。どれほど国会で罵られようと、本社前にデモ隊が押し掛けようと、会長共々平気な顔で過ごしている。避難所に行って「土下座をした」ことになっているが、謝罪する方もされる方も、共に畳の上に座った状態で、何が「土下座」なものか。単なる謝罪ではないか。
彼等の不敵な自信は何処から来るのか。あの尊大な態度は何処から来るのか。それは彼等だけが「電力を止める権利」を持っているからである。批判の嵐の中で、「どうも悪うございました、今日を限りで会社を畳みます」と嘯けば、誰が一番困るかをよく知っているからである。
国家の軸たる基幹企業が、「そんな馬鹿なことが出来るわけがない」と思われるだろうが、その「馬鹿なこと」をかつての国鉄は堂々とやっていた。スト権の無い国鉄職員が、スト権を求める「スト権スト」なる珍妙なものを主張して、電車を止めていたのである。
海江田は自身の給料を返却するとは決して言わないが、東電社員の給料は減額せよ、もっともっと減額せよと迫っている。チラリホラリと国有化の話まで出て来る。仮に東電解体、国有化となれば、どうなるか。おそらくは一時間に十五分、職員の休養の為に電気を止めます、などという話になるだろう。まさに「計画停電」である。今の組合員が国有化によって公務員になるのである。大出世である。民間では許されないサボタージュが、あの国鉄の悪夢が再び甦るのである。
東電解体は容易ではない、と書いたのはこれが理由である。我々は生活の基本たる電気を押さえられている。東電の企業風土を批判し、それを改善せんが為にあらゆる力を注いで、「国有化を切り札」に徹底的な再構築を目指したところで、もっとも取り出さなければならない病巣は、そのまま残る可能性が高いのである。
東電叩きをする時の海江田や枝野の嬉しそうな顔を思い出して頂きたい。昭和半ばの設定を持ち出し「これは人類未経験のレベルの災害ではない。従って東電は無限責任を負う」と断じる海江田・枝野の発言は必ずブーメランになり、自らに突き刺さるであろう。所詮は一民間企業に過ぎない現在の東電を、政府が挙げて批判しているこの異常性に気づいて頂きたい。
「責任の上限が無い」ということは、賠償金の多寡を意味しているのではなく、民主党政府の失政の部分をも含めて、東電が生贄になるということである。政府は全てを東電の責任にすり替えて、難局を乗り切ろうとしているのである。
同時に、幾ら叩かれても涼しい顔をしている東電社長や会長の分厚い面の皮を思い出して頂きたい。あの落ち着きは何を意味するのか。彼等は何を隠そうとしているのか。裏に何があるのか。如何なる力が働いているのか。よほど慎重に対処しないと、国民の真っ当な怒りは、そのまま我々がもっとも望んでいない結論を導く為に利用されてしまうだろう。従って、我々は東電及び原発に巣くう本物の病巣を取り除くと共に、あらゆる問題を政権延命に利用する政府をもターゲットにしなければならない。
見事に病巣を取り除く「名医」の登場が期待される。我々の声は、その名医の登場を促し、それを応援するものでありたい。今のままでは原発の一時停止すらままならず、東電も解体出来ず、民主党批判への結集力も弱まる。これでは国民にとってプラスになることは何も無い。彼等にはもっと慎重に、もっと残酷に対応するべきである。「熱狂」はその邪魔になるとしか思えない。