【本郷和人の日本史ナナメ読み】(8)
さんざん引っ張ってすいません。ぼくが思い描く桶狭間の戦いとは、次のようなものです。永禄3(1560)年、前年にほぼ尾張を統一した織田信長の勢力の増大を警戒した今川義元は、領国の総力を挙げ、2万を超える大軍を率いて尾張国境に兵を進めた。国境地域を侵略して信長の勢いに打撃を与え、ゆくゆくは尾張を占領するためである。
信長も全力で今川勢を迎え撃つ。尾張一国を完全に掌握していれば2万の兵を動員することも可能だが、まだその支配は成熟していないために、そこまでの軍備を整えることはできない。けれども、おそらく1万を超える兵は用意していただろう。
今川軍はそれぞれの城や砦(とりで)を攻める兵を割き、桶狭間に陣を敷いていた。織田軍は丸根・鷲津砦を捨て駒とし、残る全軍で今川本軍を攻撃する。この時点で、桶狭間における両軍の兵力差は相当に縮まっていて、今川軍が織田軍の10倍などということはあり得なかった。戦術の巧拙はさておくとして、戦いは織田軍の勝利となり、今川軍は大将の義元以下、歴戦の諸将が討ち死にを遂げた。この敗戦以後、今川家は衰退の一途をたどる。
以上がぼくの考えで、『文芸春秋』2008年5月号では、その要旨にそって発言しています。そもそも、いま主流になりつつある、「2千の信長軍の正面攻撃」説は、根本史料である『信長公記(しんちょうこうき)』を厳密に読もう、というところから出発している。『信長公記』はたしかに良い史料ですが、戦いの年次を天文21(1552)年としたり、今川軍を4万5千としたり、重大な情報において確実に誤ってもいる。これさえ読めば大丈夫、というわけにはいかない。だからぼくは、以前にも書いたように、この説に賛同できないのです。
それよりも、ぼくが感心したのは、ネット上で見た『余湖くんのホームページ』(http://homepage3.nifty.com/yogokun/)の考察です。中世城郭研究者の余湖さんが書かれているのですが、残念ながら面識がなく、どんな方なのかは存じ上げません。ですが、余湖さんは、ぼくと同じように織田軍は『信長公記』の記事よりはるかに多かっただろう、とした上で、ぼくが思いもしなかったことを書かれています。なぜ、『信長公記』は戦いの年次を天文21年、実際よりも8年も早く設定しているのか。
それは、この時点であれば、信長が集められた兵は2千人くらいだったから。作者の太田牛一は、「織田軍2千」を強調したいがために、わざと年次をずっと前に設定したのだ、というのです。
なるほど、卓見です。これなら、納得できる。では、最後に一つだけ。なぜ、牛一はそこまで「織田軍2千」にこだわったのか。ぼくは一つの妄想(いまだ、妄想の段階です)をもっています。「織田軍2千」とは信長の馬廻(まわ)り、親衛隊のことではなかったか。牛一も在籍していた馬廻りは、『信長公記』の最後、本能寺の戦いで、信長の嫡男の信忠とともにほぼ全滅します。牛一はかつての仲間たち、栄光の馬廻り隊の物語として、『信長公記』を構想した。彼らの華々しいデビューの舞台、それが桶狭間だった。それゆえに、織田軍は2千。そうあらねばならなかった、と考えてみたいのです。
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月2回掲載します。
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■錦絵の中の桶狭間
浮世絵師・月岡芳年(よしとし)(1839~92年)が描く今川義元の最期。義元に組み付いているのは毛利新助。彼は義元を討ち取る大功を立てた後も信長の馬廻(まわ)りとして一生を過ごし、本能寺の変で討ち死にを遂げた。芳年は「無残絵」で知られるが、武者絵に秀作を多くのこしている。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。