【祈り 両陛下と東日本大震災】(下)
平成7年の阪神大震災のお見舞いで、皇后さまが被災した少女を抱き締める場面があった。両手の拳を握るしぐさをされたこともある。今回の訪問でも、天皇、皇后両陛下が被災者の手を握ったり、移動のバスの中で立ったまま沿道の歓迎の列に手を振り続けたりして、臨機応変に行動される姿が目立っている。
側近は「両陛下はその場に行ってから、一番いいと思う行動を取られる。いつでも“真剣勝負”で向き合われるから」と話す。そうした姿が、各地に癒やしを与えられている。27日の仙台市ご訪問の際、皇后さまから手を握られた被災者の女性は「手を出してはいけないと思っていたけれど、感極まってしまった。優しい感触でした」と感激した。
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「両陛下のご訪問は、被災者にとって何よりの薬。行政が(村民が避難生活を送った)4年5カ月かけて一生懸命がんばっても、両陛下の一言にはかなわない」。12年に島が噴火して被災した東京都三宅村の平野祐康村長は、ご訪問が被災地に与える「効果」を、最大限の言葉で表現する。
帰島後の復興視察も含め、両陛下は公式に6回、三宅島民がいる避難所などを訪問された。村によると、非公式にも数回あり、皇后さまが御料牧場のアイスクリームを届けられたこともあった。
13年8月、両陛下が静岡・下田に避難している三宅村の漁業者を慰問された際には、小さい子供が皇后さまに「おばあちゃん、うちにも遊びにきてね」と話しかけた。皇后さまは翌朝、その子が住んでいるアパートの玄関先にいらっしゃったという。「子供の約束まで果たしてくださった。それほどまで、被災者の気持ちをくんでくださっている」と平野村長。
一方、阪神大震災のご訪問の際、避難所にいた男性は「励ましよりもお金がほしい」と避難所で大声で話していた別の被災男性が、陛下から声をかけられると、せきを切ったように大声で泣き出した光景が忘れられないと話す。
ほかの被災地の町の幹部も「政治家は体育館の壇上から『がんばれ』と一言いって帰るだけ。両陛下のなさりようは全然違う」。
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今回の震災ではこれまで、両陛下のほかにも、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、常陸宮ご夫妻が避難所を訪問されている。訪問先は重なられていない。宮内庁の羽毛田信吾長官は「役割分担という考え方は取っておられない」とするものの、皇室全体のお取り組みになっている一面もある。
皇室による「お見舞い」には長い歴史がある。励ましのお言葉やお金を受けた国民は、いつの時代も復興の意欲を新たにしてきた。
近現代の皇室について研究している静岡福祉大の小田部雄次教授によると、明治時代には自然災害に対し、天皇、皇后から賜金が出されていた。明治26年に福島県の吾妻山が噴火した際には、「予知はできないのか」と侍従を現地に派遣した記録もあるという。
大正12年の関東大震災では、皇太子だった昭和天皇や皇族が、直接現地に入って慰問された。昭和天皇は馬で東京の惨状も視察されたという。御殿を避難者らに開放した皇族もいた。
小田部氏は「慈愛、恩恵を国民が直接感じることができたし、賜金はほかの援助を得る機会になったといえる。皇室は、困難な状況におかれた人々の精神的な支えになってきたのではないか」と話す。
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三宅村の平野村長は「両陛下は復興を成し遂げる最後まで、被災地を見届けてくださる。そのお姿にエネルギーをいっぱいいただいた」と語る。両陛下の被災地へのご配慮は「その場限り」で終わらないところに特徴があり、それを受け止めた各地でもさまざまな形で記憶、記録されている。
阪神大震災直後に両陛下は、火災で壊滅した神戸市長田区に足を運ばれ、皇后さまはその日の朝に皇居で摘んだ17本のスイセンを手向けられた。地元住民の提案でスイセンはドライフラワーとなり、市内で展示されている。地元関係者は「みんながいただいたもの。復興のシンボルとして長く展示したい」。
今回も「国民とともに歩む」皇室を体現している両陛下は、5月上旬までに、被害が大きかった東北3県すべてに足を踏み入れられる予定だ。復興の長い道のりを見届けられる「祈りの旅」は、まだまだ続きそうだ。
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連載は芦川雄大、篠原那美が担当しました。