【遠い響・近い声】特別記者・千野境子
「あの時」は、もはや民族共有の痛恨の経験として、末永く記憶されるに違いない。これに勝る時は昭和20年8月15日くらいかもしれない。そんな予感がする。
3月11日午後2時46分。あなたは何をしていただろうか。私事を言えば、当欄の翌日組み原稿を校正して間もなくだった。経験したことのない揺れに、「ついに私も関東大震災を経験するのか」と思った。
実は、その原稿は『関東大震災 女学生の記録』についてだったからである。横浜・山手のフェリス女学院に学ぶ、当時16歳から18歳の女生徒151人が仮校舎での国語の時間につづった震災体験の証言集で、創立150年を記念する校史編纂(へんさん)の一環で刊行されたものだった。
好奇心も記憶力も旺盛な10代後半の少女たちの経験・目撃談は、体験者も少なくなった88年後の今日、貴重に思えた。10万人からの命を奪った火災の証言は実に生々しい。
《物の焼け崩れる音、火のうなり声、何て物凄(すご)いのだろう。何日まで何処まで焼けるのであらふ》
《逃げても逃げても後から火は逐(お)ひかけて来るのでした。…「万事休す」「横浜は全滅だ」など言ふ声が聞こえました》
そしてもう一つ。にもかかわらず何人もの女生徒がいちはやく復興に目を向け、明日への希望や決意を記していたのが印象的だった。
《総(すべ)てが灰燼(かいじん)の中から新しい生命をもって一日々々と復興してゆく町を見つめて居(い)るとき、忘れ得ぬ思ひ出はいつも涙をさそひます。そして生まれ出る力を祝福しつゝ頬笑ましい希望への胸は高鳴るのです》
《多くの生命が此(こ)の世を去って行きました。と同時に多くの生命が生まれて来ました。廃墟(はいきょ)の都から新文化へと人々は努力して居ます》
《古い一切のものを壊すのは結構だ。新しい美しい物を創造するの事を忘れてはならぬ。…記憶せよ、九月一日を永遠に!》
目覚ましい回復力。前向きで貪欲な精神。若さの特権かもしれない。こんな正直な感想もあった。
《稲妻の様に起(おこ)って過ぎた色々の事をけろりとわすれて、世の中に恐ろしい事などないといふやうな気持になった》
実際、関東大震災後、東京も横浜も「万事休す」ではなかったのである。いまはまだ惨状広がる東日本大震災も同じであってほしい。そしてその復興には、こうした女生徒たちと同じ若い世代を原動力にしてほしいとも思う。なぜなら彼らこそ10年、20年後の日本を担うからだ。
その意味で現下の復興構想などに若い力の積極的評価が見られないのは、いささか残念だ。肉親を失ったり、仕事や学業の機会を奪われたりして過酷な人生を歩まねばならぬ若者も少なくないだろう。それでもと、あえて言いたい。若さにはそれを克服する力がきっと備わっているだろうと。
《木の葉の落つるも、先(ま)づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり》(『徒然草』百五十五段から)
葉は古くなるから落ちるのではない。新しい芽の勢いによって葉は取って代わられるのだという。
東日本大震災の後、「災後」の表現が散見されたのは示唆的である。もはや「戦後」ではない。まったく新しい「災後」日本を。そしてその主役は若い世代にこそ与えたい。