【from Editor】3・11大地震
「TSUNAMI(津波)」という、今では海外でも通用する日本語を初めて世界に紹介したのは小説家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)だといわれる。
八雲は、江戸時代に紀伊半島を襲った大津波から村人を救った豪商、浜口儀兵衛の実話を元に『生き神』という作品を書いた。この話に感動した小学校教員の中井常蔵が翻訳し、再構成したのが戦前国語の教科書に掲載され、広く読まれた『稲むらの火』だ。
儀兵衛(『稲むらの火』では五兵衛)は地震の揺れに続いて浜辺から海水が引くのを見て大津波の襲来に気づき、稲の束に火を放って村民を高台に誘導した。津波の恐ろしさを伝える防災教育の役割を担っていたともいえる。
死者・行方不明者が2万7千人を超える東日本大震災でも、日頃の防災教育や防災活動が多数の命を救ったケースがあった。岩手県釜石市は津波で大きな被害を受けたが、市内の小中学校14校の児童・生徒約3千人はほぼ全員避難して無事だった。
群馬大学の片田敏孝教授(津波防災)によると、中学と小学校が隣接する鵜住居(うのすまい)地区では教員の指示を待たずに中学生が「津波が来るぞ」と叫びながら避難し、小学生が後に続いた。そして最初の避難場所が危険だと分かると、さらに高台を目指したという。
5年前の千島列島沖地震で津波警報が出たにもかかわらず避難率が10%未満だったことに危機感を抱いた市教委が片田教授らと共同で小中学生を対象に実践的な防災教育を実施してきた。それが「釜石の奇跡」につながった。
岩手県宮古市田老(たろう)地区では高さ10メートル、総延長2・4キロという国内屈指の防潮堤が大津波(37・9メートルの高さにまで到達したという)で破壊された。しかし、地域ぐるみで防災活動を展開してきた同地区の人たちは地震発生から避難するまでの時間が早かったことが、産経新聞社が大阪市立大学の宮野道雄副学長の協力を得て実施したアンケートで分かっている。
津波災害に対してハード(防災施設)に頼るのは限界があるのか。ソフト(防災教育や防災活動)が機能すれば十分なのか。それともハードが整っているからこそソフトは機能するのか。
四方を海に囲まれた地震国に住む日本人は、これからも津波と向き合っていかなければならない。「釜石の奇跡」と「田老の備え」を検証し、教訓を伝えていくのはわれわれの務めだろう。(大阪編集長 竹田徹)